Sol Anochecer
昼過ぎに降り出した冷たい雨の止んだ日。
16時44分発。
西へ、西へ向かう夜行特急Sol Anochecerを待ってる。
誰もいない駅、風の中にひとり。
乾いた手と顔を時々しゅるしゅるとこすり合わせて、立っているのがつらくなったら片足にだけ体重をかけて。
埃と砂にまみれた駅舎のレンガは夕陽と同じような赤茶のオレンジ色をしている。古く白っぽい灰色をしたコンクリートの階段を低く重い足取りで上がってゆく。数段だけ目線が高くなると、遠くの景色が少しずつ見渡せるようになってゆく。自分の靴音に追いかけられているような気がする。
背の高い草いきれの向こう側に暗く分厚い雲がかかり、それを突き抜けるように夕陽が差している。強く冷たい風と雲の下で、オレンジの光がゆらめく。
手のひらに輝くスピカがあぶくのなかで揺れている。背負っていたことを思い出すくらい重たかった荷物はそのくらいだった気がする。何がそんなに辛くて、嫌になって、旅に出たんだろう。喉元を過ぎ去った煮え湯と同じで、背中を降りた重荷も忘れてしまえると思う。たぶん。きっと。ああ、だから自分は旅に出たんだった。
飲み込み、背負って来たものたちを、座席に置き去りにしたまま何処とも知れぬ終着駅まで運び去り、古ぼけた忘れ物コーナーの木箱の中で眠りに就かせてもらいたかった。
強く冷たい風が吹いてる。
街に、家路に、僕に心に。誰もいない家の中で空っぽの洗濯機だけが動いていて、訳知り顔のシーケンサだけがクルクル回り続けている。洗ってしまいたいほど汚れているものなんて大してありもしないのに。
地下鉄の駅を出る階段を上がってゆくと千日前通と谷町筋の交差点に出る。ファミマの角から出てしまったから、横断歩道を渡って対面に向かう。谷町筋を下って、もう一つのファミマを通り越し、変わった形の交差点まで来たら丸っこい巨大な看板が見えて来る。
LOVEの四文字が踊るその球体看板を目指して歩く。この細い道にも源聖寺坂筋という名前が付いていることを知る。
駐車場のスロープを通り越してカバーのある入り口から階段を上がる。薄暗いロビーを抜けてフロントで受付を済ませる。愛想の良い年配女性からキーを受け取り、振り向きざまに小さな透明のプラカップを手に取る。色とりどりの入浴剤を一つ選びカップですくいエレベーターに乗り込む。カップに入った入浴剤だけ片手に持って廊下を歩き、古くガタつくカギを苦労して開ける。
暗い部屋の灯りを探して、明るくなった部屋のバスルームを探す。
千の悪夢が見たくて、あなたの隣で眠りにつく。
千の悪夢に呑まれて、あなたの隣で眠りにつく。
千の悪夢に呑まれた、あなたが隣で眠りにつく。
千の悪夢を過ごした、あなたの隣にあたしが居る。
眠っているのは確かにあたしだ。隣に居るのは誰だろう?
フタのついたゴミ箱に積み重なった小さなガラス瓶たちが、それぞれに抱えた雫を閉じ込めていることを誰が知っているのだろうか。
色の付いた雫。腐り始めた雫。異臭を放つ雫。乾き変質した雫。
その雫の中にすら、あぶくは浮かんで世界を映す。
いつも帰ったら調べようと思って忘れがちな、知っているようで思い出せない曲が頭の中でずっと鳴ってる。検索しようにもタイトルも歌手も、家の中を探そうにもレコードジャケットも集めた張本人も、手掛かりと心当たりが手のひらをすり抜けて砂になって風に舞う。
そのレコードを買って来たのは母で、子供の頃よくクルマのなかで流していた。ハスキーな声で、男だか女だかわからない。なんて歌っていたのかもよくわからない。
英単語のような、ニホンゴのような不思議な声と言葉だった。
それしかわからない。
母の好きだった歌を探しに、記憶の奥底から夕暮れの街へ旅に出る。
16時44分発。
西へ、西へ向かう夜行特急Sol Anochecerを待ってる。
誰もいない駅、風の中にひとり。