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noteを続ける理由

あんたも何か続けていることってあるかい?

「#noteの続け方」ってお題がnoteから出ているのを見て、結構な人がそのお題でnoteを書いているのを見かける。

実際問題、noteを毎日書いてみてみると、当たり前っちゃー当たり前だが、何を書いたものか筆というかキーボードが止まることも普通にある。

まあ、ごく当たり前の会社人としては、よくあることなのかも知れないな。

でも、今日もこのnoteを書いている。

そもそもなんでnoteを書いているんだっけ?そんなふうにもしかしたらあんたも思っているかも知れないよな。

今回は、自分がnoteを続けているわけを振り返ってみようと思う。

さて、何が出てくるやら。

自分がnoteで書いている直接の理由

自分の場合はただなんとなく投稿を続けているってのとはちょっと違う。

下世話な話かもしれないが、自分がnoteを書く理由は一つだ。

「誰かとコミュニケーションしたい」だ。

まあ、俺のnoteに反応してくれる優しいあんたとやり取りしたいって話だな。

オッサンともなると、仕事上の交流以外で人と知り合うことって意識しないとほとんど皆無になる。

ゴルフでもやっていれば、それを通じた交流ってやつもあるんだろうが、あいにくゴルフに対しては金銭を無駄遣いするってイメージが先行してどうもやる気が起きない。

じゃあ、何かのイベントに積極的に参加すればいいってことになるが、そもそもそのイベントで知り合いになるにしても、このSNS隆盛の世界で、自ら発信しているメディアを持っていないってことは、すげぇビハインドになる。

要するに、ここのnoteは俺自身を知ってもらうための名刺代わりってわけだな。

自分をさらけ出した文章を書くってこと

ということで、ここのnoteはすごい手間ひまをかけた自己紹介文ってことになるんだが、当然それだけの意味では収まらない。

文章を書き続けることが俺に与えてくれるものがある。
それは、俺が考えていることを俺に知らせるって意味だ。

意味がわからないって?
じゃあ、あんたに聞いてみたいんだが、あんたはあんたが考えていることをすぐさま言葉にして誰かに伝えることが出来るかい?

ここでnoteを書き続けてみて思ったんだが、俺は俺自身が思っている以上に物事を「感覚」で捉えたままにしているって思うんだよね。

いろいろなことを感じることには意味がある

何しろ、俺たちはその感覚を味わうために生きているようなもんだからな。

でも、その感じていることはその感覚を直接体験している俺たち自身にしか情報として伝わっていない。
そりゃそうだよな。誰にも伝えていないんだから。

で、その感覚を言葉にして誰かに伝えようとしてみる。
途端に「言葉」という表現方法によって、俺の感覚はフィルタリングされ、俺の感覚とは別の何かに変わっていく。

「言葉」にするという作業は、俺の感覚を100%伝える事はできない。
それがnoteを書き続けて改めて確信できたことだ。

俺たちは、その意味で孤独を味わい続ける運命にあるのかも知れない。

それでも「言葉」と紡ぐ意味

100%表現できないのなら、そこに意味は無いんだろうか?

断じて否だ。

100%伝わらないからこそ、俺たちは言葉を選ぶ。

俺たちの感覚のどこを切り出したら、この感覚を共感しやすいんだろう?
俺たちの感覚の中で俺たちは何を大切に思うんだろう?

それは言葉というツルハシで感覚という鉱脈を発掘するような作業だ。

この感覚マイニング。やってみると全く思ってもいなかったような言葉がちょいちょい出てくる。
あんたも自分の昔の記事を読み返してみるといい。

昔のあんたの感覚が今のあんたに知らせてくれるものもあると思うんだよね。

なあ、あんたはどうする?

noteを続ける意味。思い出せそうかい?

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