見出し画像

無意味を繰り返した先に何があるというのだろう

 今日、私は何かを食べて生きながらえてしまった。なぜこのようなことをしたのだろうと何度思ったことでしょうか。体の中に物を取り入れて生きながらえることは意味のあることだったのでしょうか?

 医者が誰かを救う。けれどその救われた命は救われる必要があったのだろうか。きっと明日を生きながらえることはできるかもしれない。けれど明後日に事故で死んでしまうかもしれない。誰かに殺されてしまうかもしれない。そんな命を助ける意味なんてあるのでしょうか?
 いや、結局事故で死んでしまうという運命だったから無意味だというわけではなくて、そもそもの話。意味があったのだろうか? その人が生まれる必要があったのだろうか?
 なぜ生まれたのでしょう? なぜ生きたのでしょう? なぜ病気になってしまって、なぜ救われたのでしょう? そしてその後になぜ死んでしまったのでしょう?
 ああ、少し大雑把に人生を記述しすぎました。
 なぜ誕生のあの時に泣いたのでしょう? なぜ親の言葉をその耳で聞いたのでしょう? なぜ人に問いかけたのでしょう? なぜ人を恨んだのでしょう? なぜ嫉妬をしたのでしょう? なぜ夢を持ったのでしょう? なぜ言葉を使って話したのでしょう? なぜ友人と一緒にいたのでしょう? なぜ?
 その歩んできた全ての時間の全てのことにおいて、なぜそのようなことをして生きてきたのだと問いたいのです。それら全ては本当にする意味があったのかを。
 その救った命が生きながらえてしまったせいで誰かが傷つくことになったとしたらどうなのでしょうか? その命を生きながらえさせるべきではなかったのではないでしょうか?
 殺人罪に問われた人が殺した人間がこの世からいなくなったおかげでもしかしたら色々な人が救われるとしたら、その殺人はあってもよかったのかもしれないではないでしょうか。
 それなのに、なぜ法はその人を裁くのでしょうか? なぜ法が作られたのでしょうか? なんのために作られた法なのでしょうか? 誰かの幸せを守るためでしょか? 無意味ではないでしょうか? その人が法を恐れないとしたら、その法は全く無意味になってしまう。
 法は物理的な強制力を持たない。それならなぜ法は存在する? 法があったとしても、これだけ世界では惨劇が溢れているではないですか。

 この世界が惨劇の墓場のように見えてしまって仕方がないのです。もしそうなら時間を進めれば進めるほどその惨状は酷くなっていく一方。ならばもうこの繰り返しを消してしまえばいいのに。
 誰も救われず、誰も殺されない。そんな世界なら。

 このままこんな世界を続けていって誰がどうなるというのでしょう? 死んでいく人が増えていくだけの世界。悲しむ人が増えていくだけの世界。それが続くのではないでしょうか?
 幸せを感じる人も増えるでしょう。しかしそれはどれだけ続くというのでしょう。果てなく続くというのなら少しはマシですが、そんなはずはないでしょう。

 散り花のみが火を受けるのではない。開花した途端、群をなした花々が不純な化学反応を起こす物質を広く取り込んで、黒煙をその空に、世界に、吐き出すことがある。そうやって汚染された思想を撒き散らして、周囲の開花前の花を枯らしていく。荒れ果て、草木の一つも生えないような、赤色の液体をどこにも流せない土地へと変わったその地は、惨劇の地と思わないでいられるでしょうか。
 涙を無情に穿つ心がこの世界の温度を下げていく。空は灰色になっていく。陽のささないコンクリートが地上を同じ色にしていく。
 整った風景がこんなにも悲しい色をしているのはなぜだろう草木が無いという点においては荒野と言えるけれど、しかし荒野と定義できないその風景を私の心象風景を通してみるとそこは荒野になってしまう。

 どこに何がある? この世界を果てまで見たとして、透明な水圧はどこにいけば消されないですむ? 霞んだ声はどこにも届かない。誰にも見えない。目が消えているわけではない。確かにある。けれど、その目は何色をしているだろうか。それは二つの暗点。そしてそれを一つのまとまりとしてこの世界を覆い尽くすほどに存在している。これは病理。長い年月をかけてこの世界で進行していっている病理。
 これを浄化するにはどうすれば良いのだろう。双眸を潰せばいいのか? そうやって少しずつ消していけば、最後に世界は救われるだろうか。
 誰もいなくなった世界で、そこに立っている未来しか想像できない。

 救いがあると言った人がどこかにいた。それを作り出したのは確か人間だったかな。
 救いがあってほしかったのだろうか。
 誰かにその声を聞いてほしかったのだろうか。
 いくつもの暗点に覗かれるその身を守ってほしかったのだろうか。
 その人たちは守られたのだろうか? その愚かさにつけ込む者が一人もいなかったのだろうか?
 裏切られた人は次に何に縋ったのだろうか?
 命を捨てただろうか? その捨てた命は自分だっただろうか? 他人だっただろうか? 他人に向いたその刃に向かって、一人で勝手死んでおけと言い放つその刃は罪に問われなかったのだろうか?
 心を切り刻まれた者の手にあるその刃は、本人の命は奪うことのできない、けれどその手を酷く傷つけていくような、柄も、鍔も、鞘も無い、そんな刀であったのではないだろうか。
 その指が落ちるまで続いたであろうその殺戮を咎める者は誰だろうか。殺戮された者はおそらくその権利があるのかもしれない。けれどその権利を行使して生まれるのは新たな殺戮の権利。誰かの手から手へと渡っていくその権利を破り捨てる者がいなければ永遠に続いていく。そしてこの痛みの鎖はこの世界に一つではない。至る所で点が線を作り、線が円を作り、その複数の円が絡み合って、繋がって、この世界を縛り付けていく。
 不可逆な連続現象が自然発生しているこの世界から外れる以外に、私たちはどうやって鎖化を止められるのだろうか。

 不可能がある。ならば奇跡を信じるか。
 奇跡が起きないのならその紛い物を信じるか。
 紛い物を利用して欺かれたら。
 信じて、信じて、信じて、いくつも騙されて、消えていく願いを諦めて、何も掴めなくて、何かを奪われていって。
 ならば全てが最初から無意味だと思えば、少しは裏切りを無にできるだろうか。もはや仮にこれからが幸せで埋め尽くされたとしても、この世界はそもそも無意味の集まりのものとしか思えない。

 なぜ生命は生きることを望むようにできている。なぜ子孫を続けていくようにできている。それも何かを殺してまで。
 生命の本質は争いなのか。ならばなぜ争わないことも望むようになっている。
 そもそもこの繰り返しになんの意味がある。

 なぜ私は今日も生きてしまっている。
 なぜまだこの世界で暗点が蔓延っている。
 浪費をしてなんの意味がある。生産してなんの意味がある。
 それらがあらゆるものの対価だとしたら、その生産に意味はあるのか。

 殺せばいいか。消せばいいか。
 その風景は美しいだろうか。見てみたいものだ。
 無意味を無駄に過ごしたその時間が無の結末になってくれたら、その無意味は立証されるだろうか。
 救えない。救われない。救いようもない。救う意味も無い。
 全てはどうしようもなく、今日もここにある。

いいなと思ったら応援しよう!

深山(ノ)空想note
生きているだけでいいや。