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立花隆は「臨死体験」をどう解釈したか

人間,死んだらどうなるのか?

この問いに関心のある人は多いだろう.今はなくても,人生のどこかで強烈に関心を持った経験がある人は多いだろう.納得できる答えを見付けられた人もいれば,そうでない人もいるだろう.私自身は結局よくわからないままで今に至っている.初詣に神社に行って,ときどき墓参して,仏壇の前で手を合わせて,クリスマスツリーを飾ってという,いかにも日本人的なスタイルで生活している.

臨死体験をもって,死後の世界を垣間見たという人たちがいる.死後の世界の存在を信じない人達からすれば,許せない見解の表明だ.立花隆も死後の世界や肉体が死してなお残る魂の存在には懐疑的であるが,結論は自分で調査してから出すというスタイルのため,臨死体験についても徹底した取材を実施している.それをまとめたのが本書「臨死体験」である.

臨死体験
立花隆,文藝春秋,2000

本書「臨死体験」は上下巻からなる大作だが,結論を述べておくと,「臨死体験が何であるかは,今のところ,わからない」となる.明確な答えが欲しい人は本書を読んでも得るものがないかもしれない.

なお,臨死体験の有無が争点なのではない.臨死体験と言われるものが存在するのは疑いの余地がない.その上で,臨死体験として体験されるものが,現実の体験であるのか(現実体験説),脳内の現象(脳が作り出したイメージ)にすぎないのか(脳内現象説)で意見が大きく割れる.この界隈の研究者であっても意見が割れている.

臨死体験なのだから,死に臨まなければ体験できない.死には様々な原因があり,様々な死に方があるが,臨終時の表情を調査した結果が掲載されている.この結果を見ると,安らかな表情で亡くなる人が圧倒的に多いことがわかる.

臨終時表情調査(N=1175)の結果:
安らか 70.6%
無表情 14.0%
苦痛 10.7%
興奮・緊張 1.5%
ほか

臨死体験をした人達は,口を揃えて,素晴らしい体験をしたと語るそうだ.真っ暗なトンネルを潜り抜けると,どこまでも続く花畑があり,非常に明るく暖かい光に包まれるといった具合に.このため,死が怖くなくなるのだという.中には,死ぬのをワクワクして待っているという人もいる.このようなことを知っておくと,死への恐怖心が和らぐかもしれない.

そして,多くの臨死体験者が「死ぬのが怖くなくなった」「生きることを大切にする/よりよく生きるようになった」と話す.「いずれ死ぬときは死ぬ.生きることは生きてる間にしかできない.生きてる間は,生きてる間にしかできないことを,思い切りしておきたい」と考えるようになるかららしい.

臨死体験において,日本人の場合は,川が流れていることが多いらしい.これは三途の川だろう.その川の対岸に,既に亡くなった人が現れたりする.インドでは,ヤマラージ(閻魔大王)に遭遇する人が多いそうだ.キリスト教圏では,神やイエスに出会う人が多くなる.臨死体験には個々人が属する文化が色濃く反映される.これは,実際に臨死体験として体験したことの記憶を,無意識に脳が色々と処理をして,その結果を臨死体験として語るからだろう.我々が自分の目で実際に見ていると信じているモノも,脳でそのように再生されているだけで,現実がその通りかどうかはわからない.それと似たようなものだ.

人間は,出生時どころか胎児であったときのことも覚えているらしい.その記憶が意識されることは少ないため,嘘だと退けてしまう人は多いが,そのときの記憶は無意識下で大きな影響を持つ.赤ちゃんの記憶力を含めた能力を舐めてはいけない.

本書「臨死体験」では,立花隆が自分で取材したものも含めて,数多くの臨死体験の証言が出てくる.もちろん個人差はあるものの,そして文化的背景による違いがあるものの,暗いところを抜けて強烈な光を見るなど,全世界的に共通する点がある.さらに,体外離脱したとの証言が多い.手術されている自分の肉体を,手術室の上の方から見ていたといった話だ.ところが,そのような体外離脱したという証言の中に,決して見ることができないはずのものを見たという証言がある.しかも,それが客観的事実とあっている場合がある.少数ではあるが,そのような否定できない事例があるため,体外離脱を科学的に否定することはできない.

臨死体験に対して,現実体験説に懐疑的な立場を貫く立花隆が,それでも最終的に現実体験説を否定しきらないのは,このためである.

臨死体験を科学的に説明するための仮説はいくつも提示されている.その中のひとつに,側頭葉てんかんと結び付ける仮説がある.側頭葉てんかんの患者が経験する幻覚や幻聴が臨死体験と似ているためだ.

脳は部分ごとに異なる機能を担っているとされる.最初に脳の機能局在地図を作成したのは,Wilder G. Penfield医師である.てんかん専門医であったペンフィールド医師は,1920年代後半から1940年代にかけて,てんかん外科手術時に脳を局所的に電気刺激して,てんかん焦点を特定すると共に,脳機能障害が起きないかを確認するという実験を400症例以上実施した.これにより,脳のどの場所がどの機能に対応するかを明らかにした.

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この手術では色々な部位を電気刺激するが,側頭葉のシルヴィウス溝を刺激したところ,臨死体験と同様の体験をする部位があることがわかった.また,側頭葉に非定常放電が起こると特別な感覚(強烈な宗教的体験など)がもたらされるという.

歴史上の聖人たちが体験した劇的な宗教体験(神と出会うなど)は,現代医学ではほぼ例外なく側頭葉てんかんと診断されるという.幻覚や幻聴は側頭葉てんかんの主症状のひとつとみなされる.

このような仮説もあるが,先述の通り,現在の科学では説明できない現象が存在する.このため,現実体験説を完全否定して,脳内現象説を採用することはできない.そこで,立花隆は自分自身の立場を次のように述べている.

いずれの説が正しいにしろ,いまからどんなに調査研究を重ねても,この問題に関して,こちらが絶対に正しいというような答えが出るはずがない.だから,いずれにしても,私は決定的な答えを持たないまま,そう遠くない将来に,自分の死と出会わなければならないわけである.そのことに関して,今からいくら思い悩んだとしても,別の選択ができるわけではない.それなら,どちらが正しいかは,そのときのお楽しみとしてとっておき,それまでは,むしろ,いかにしてよりよく生きるかにエネルギーを使ったほうが利口だと思うようになったのである.

私も同じように思っている.現在の科学では,臨死体験とは何であるかも解明できないし,死後のこともわからない.そういうものだと知った上で,神様を信じるもよし,無神論も不可知論もよし,さあ,どう生きるんですか?ということだろう.

ところで,夢を見ていないと言う人は見ていないのではなく覚えていないだけだと言われる.私は夢を全然見ない(覚えていない)ので,その方面の感覚が途方もなく鈍いのだと思う.臨死体験もできない派な気がする.死なないことが分かっているならしてみたいのだけれども.いや,そもそもこの考えが賤しいな…

© 2021 Manabu KANO.

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