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問題の本質を捉えるため「フェイクニュースを哲学する」
現代認識論からフェイクニュースや陰謀論を真面目に考察している.さすがは哲学と思える内容であり,薄っぺらい問いに答えて満足するのではなく,多く人が漠然と頼りにしている前提も疑うし,言葉を厳密に定義してから議論するし,とてもスッキリと読める.
フェイクニュースを扱った本はたくさんあるが,本書「フェイクニュースを哲学する ─ 何を信じるべきか」は一線を画していると思う.自分の考えを整理するのに大いに役立った.なお,本書は千葉大学での講義を元にしているとのことだ.
フェイクニュースを哲学する ─ 何を信じるべきか
山田圭一,岩波書店,2024
副題に「何を信じるべきか」とあるとおり,本書では,他人の言っていることを信じてもよいのか,うわさは信じてよいものか,どの専門家を信じればよいのか,マスメディアはネットよりも信じられるのか,陰謀論を信じてはいけないのか,といったことが順に論じられている.
フェイクニュースは悪だ!と思っている人は多いと思う.トランプ米国大統領も「あれはフェイクニュースだ!」と批判するくらいだ.実際,フェイクニュースには,経済的なものなど,直接的な害がある.しかし,フェイクニュースの深刻な害は,直接的なものではなく,それらが我々の社会に時間をかけて与える影響ではないかと本書では論じられている.
フェイクニュース(特にその真偽に無関心な人達による出鱈目な情報の発信と拡散)が社会に蔓延することで,真偽を区別することへの関心や意識が薄れていっているのではないか.そうだとすると,それなりに正しい情報を我々は共有しているという民主主義の前提が壊されていっているのではないか.そのような危機感を著者は持っている.
フェイクニュースはインターネット社会の特徴というわけではない.昔から偽の情報は流布されてきた.しかし,インターネット社会になって,偽の情報が広がる速度が飛躍的に上がり,偽の情報が広がる範囲が飛躍的に広くなった.
リアルな日常生活では,ある程度同じ知識を共有している人達が会話するのが常だが,ネット空間では従来なら交わることのなかった人達が会し,文脈を共有しない人達の間でコミュニケーションが行われる.これを「文脈の崩壊」という.これはSNS(特にツイッターランド)の日常風景ではあるが,トラブルの元だ.
何かを「理解」するというとき,例えば学校での様々な勉強を思い返してみると,何かしらの事実を学んで理解することになる.しかし,事実を踏まえず,根拠に乏しい状況での理解もある.事実に興味はなく,主観的にわかった気になれればよいというときの「納得」がそれだ.納得できればそれでよい人に証拠を突き付けて反証しても翻意させるのは難しい.そういう人は,そもそも事実に興味がないのだから.その分野の専門家が言うことも受け入れてはもらえない.
ただ,
1)前提を共有できていない
2)前提と結論の間の支持関係を評価できない
3)反証に馴染みがない
という,主に知識不足が原因である3つの理由から,そもそも一般人(非専門家)が専門家の主張の真偽を見抜くことは難しい.
フェイクニュースと同様に,陰謀論は悪だ!と思っている人は多いと思う.確かに,陰謀論という言葉には悪いイメージが付き纏っている.しかし,良いとか悪いとかいう先入見にとらわれずに,陰謀論をきちんと定義したとき,はたして陰謀論を信じることは悪いことなのだろうか.そう著者は問う.
陰謀論は出鱈目で信じている輩は愚か者だと断じる人は多いが,例えば,アメリカ政府の個人情報収集を暴露したスノーデン氏の主張はどうだろうか.それ以前に同様の主張をしていた人達は「陰謀論者」呼ばわりされて嘲笑されていた.しかし,主張されていたことは事実だった.では,何を根拠に,ある説を出鱈目な陰謀論だと決めることができるのか.
ちなみに,ポパーは「社会の陰謀論」において,昔はあらゆる出来事が神の意図によるものだと説明されていたが,その神の位置に秘密結社や資本家などを置くことで,あらゆる出来事を少数者の計画によるものだと説明するのが陰謀論だとしている.
もちろん,本当にダメな陰謀論は存在する.そのような陰謀論を信じる人は悪循環に陥る.自分が信じる陰謀論を信じる人は信頼できて,そうでない人は信頼できないと判断するようになり,信頼できる陰謀論者の言説をますます信用するようになる.このような頑なな集団は社会にとって脅威である.
本当にダメな陰謀論に対処するには,
1)反駁:徹底的に否定する証拠を提示する
2)暴露:陰謀論の背後にある意図を明らかにする
3)教育:知的な徳の教育を地道に行う
が有効であると述べられている.知的な徳には,開かれた心,批判的な思考,証拠に対する敬意などが含まれ,これらを総合的に身に付ける必要がある.
大学入学試験では,今年の共通テストから「情報」が試験科目になった.データ解析などが出題されたが,「情報」に関連して,我々の社会を守るために知的な徳の教育は重要だろう.
目次
序章 フェイクニュースとは何か
新たな事態が生じている
真実か否か
正直か否か
定義ではない明確化
なぜ問題なのか
真理の価値って何だろう
真理を気にかけることの価値
第1章 他人の言っていることを信じてもよいのか
リアルとネット
確かなものって何だろう
可謬主義と不可謬主義
証言の認識論
証言だけでは不十分(還元主義)
証言だけで十分(非還元主義)
認識的な自律と依存
特定の証言を信頼する条件
聞き手は何をすべきか
ネット空間での人格の同一性
モニタリングができないネット空間
政治的な動機
経済的な動機
面白がらせたいという動機
評価可能な能力条件とは
ネットの証言を取り巻く不透明さ
認識目標の再点検
第2章 うわさは信じてよいものか
信じてはいけないものの代表?
うわさとは何か
オルポートの実験
認知的な歪み
うわさは信じてもよい(コーディの反論)
判断を保留する意味
ネット上のうわさは信じてよいのか
ワンクリックで伝わる功と罪
再投稿における保証
情報源の信頼性に対するリスク
理解と納得の共有
感情の正当化と共有
うわさ話を楽しむ
自由の制限
うわさを楽しむ条件
第3章 どの専門家を信じればよいのか
専門家不信
専門知についての三つの困難
論証の仕方
過去の証言の記録
利害関心とバイアス
同意する専門家の多さ
信念形成ルートの独立性
メタ専門家による同意
他の専門家による査定
査読制度
認識の基礎としての制度
困難をどう克服するか
知的な謙虚さ
専門家への信頼は取り戻せるか
第4章 マスメディアはネットよりも信じられるのか
インターネットメディアの登場
情報の門番
マスメディアの理想と現実
査読制度との類比は成り立つか
マスメディアを信頼する根拠
信頼性への反論
メディアの評価の細分化
陪審制度との類比は成り立つか
証言選別の妥当性
多様性の認識的価値
インターネットのフィルタリング問題
フィルターバブルの認識論
エコーチェンバーの認識論
認識バブルに陥らないために
第5章 陰謀論を信じてはいけないのか
ポパー、そしてピグデンの考える「陰謀論」
不合理ではない 社会における開放性
歴史学の陰謀論
心理学の陰謀論
カッサムによる批判
知識を失わせる
政治的プロパガンダ
反証不可能性
三つの対処法
終章 真偽への関心は失われていくのか
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