日本人を拘束し破滅させえる「空気」の研究
空気を読まないと非国民扱いされる日本で,皆が空気を読んで責任を空気に押し付けて,空気に支配された自分は免責されて当然と考える.誰も責任を取らない.それで敗戦もしたわけだが日本人は懲りていないし学んでもいない.
戦艦大和の沖縄戦特攻出撃の決定に関与した誰もが無謀な負け戦だと知りながら,実際サイパン陥落時には合理的判断にて出撃させなかったにもかかわらず,なぜ戦艦大和を沖縄戦に出撃させたのか.それは,サイパンのときにはなく沖縄のときには生じていた「空気」によるものだという.
ここにはデータも根拠も何もない.あるのは「空気」だけだ.では,その「空気」とは一体全体何なのか.それが本書で山本七平が問うていることだ.
日本人を強烈に拘束する「空気」の正体を把握して対処しなければ,日本は同じ過ちを繰り返す.だから,「空気」の研究が不可欠だというわけだ.
この「空気」が強烈に日本人を支配するようになったのはそれほど昔のことではないという.
そして,形を変えていつでもどこでも現れる「空気」を醸成するのは,対象の臨在感的把握であると指摘している.臨在感的把握は感情移入の絶対化である.
一度物事を臨在感的に把握すると,つまり「空気」に拘束されると,もはや論理など何の役にも立たない.
戦艦大和の例に限らず,数多の事例がそれを物語っている.そして,日本人が「空気」に支配されて行動するのは戦前戦中にかぎったことではない.今もだ.
この強力な「空気」に対抗するための手段として,通常性的に「水」をさすことが挙げられる.これ,つまり「水=通常性」の研究が本書のふたつ目のテーマである.
本書「「空気」の研究」の単行本が出版されたのが1977年.もう50年近く前になる.このため,本書で挙げられている事例は古く,ピンとこないものも多い.そういう意味でわかりにくく感じるところも多い.それでも,日本人を拘束し日本を破滅させかねない「空気」の正体を明らかにしようとした本書は凄く,誰しも「KY」などという言葉を使うのなら「空気」とは何かについて考えた方がいいだろう.
日本人の特徴として,以下のようなことも書かれていた.天皇が人間宣言を行う前,
1)人類の,そして日本人の祖先は猿である.
2)天皇は現人神である.神が人の姿をしてこの世に現れたものである.
という2つのことを日本人は平然と受け入れていた.しかし,この2つから導かれるのは,「現人神は猿の子孫」ということである.そのようなことがあっていいのか.これはおかしいと考えるのが合理的であるなら,進化論か現人神を否定しなければならない.ところが,日本で進化論は拒否されなかった.アメリカのように裁判にもなっていない.なぜか.
二重人格なのだろうか.ある意味そうなのだろう.
宣教師を尋問した新井白石は,西洋の知識と認識を賢とし,キリシタンの教えを愚とした.その賢の部分だけを日本に導入し,愚の部分は排斥しようとしたのが,白石そして明治以降の和魂洋才である.
本書のあとがきにて,山本七平はこう書いている.
空気を読むことも処世術として大切なのかもしれないが,空気に支配されてしまわないために,「空気」が何であるかを知る努力は必要だろう.
結局,日本人は変わらないし,変われない.そうだとしたら,あわれだ.
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