見出し画像

人間と共生する,ちょうどいい「コンヴィヴィアル・テクノロジー」とは何か

Industry 4.0とかSociety 5.0とか何でもN.0と名付けてしまう軽薄さは気になるが,技術が段階的に発展してきたことを踏まえて,何とかN.0という言い方がされる.人間は自ら技術を発展させて,その技術を使ってきたわけだが,高度化した技術からはむしろ人間は疎外され,あるいは人間は技術に隷属してしまっているのではないか.そのような問題意識から,あるべき人間とテクノロジーの関係を模索するために,本書で取り上げられているのが「コンヴィヴィアリティ (Conviviality)」という概念である.

コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ
緒方壽人,ビー・エヌ・エヌ,2021

コンヴィヴィアルって何?

私も含めて多くの人はまずそう思うだろう.著者もそれはよく分かっているようで,プロローグの前に「コンヴィヴィアル?」という章がある.その冒頭で以下のように説明されている.

思想家イヴァン・イリイチは,著書『コンヴィヴィアリティのための道具 (Tools for Conviviality)』において,行き過ぎた産業文明によって人間が自らが生み出した技術や制度といった道具に隷従させられている,つまり,人間は道具を使っているつもりで実は道具に使われているとし,未来の道具は,人間が人間の本来性を損なうことなく,他者や自然との関係性のなかでその自由を享受し,創造性を最大限発揮しながら共に生きるためのものでなければならないと指摘した.本書は,この「コンヴィヴィアリティ」という概念を足がかりに,これからの人間とテクノロジーのあり方を探っていく.

そもそも「コンヴィヴィアル (convivial)」という言葉は聞き慣れない言葉である.日本語では「自立共生」などの訳語も与えられるが,元はラテン語のconvivereに由来し,conは「共に」,vivereは「生きる」,すなわち英語で言えば"live together"「共に生きる」ことを意味する.

「コンヴィヴィアル・テクノロジー」とは,人間同士が共生するための技術ということではなく(それもとても大事だが),人間と共生する技術ということになる.つまり,コンヴィヴィアル (convivial) な技術とは,人間らしさや人間の能力を最大限に発揮させる技術であって,ブラックボックス化するカーム (calm) な技術ではない.技術がブラックボックス化すると,人間はその技術に隷属してしまう.

人間が技術に隷属してしまわないために,技術をブラックスボックス化させないこと,技術を理解することが大切である.「量子力学で生命の謎を解く」では,ファインマンが最期に黒板に書き残したとされる "What I Cannot Create, I Do Not Understand." が繰り返し引用されているが,本書「コンヴィヴィアル・テクノロジー」でも,人間と技術の関係を示す言葉として第1章に引用されている.

人間の能力を最大限に発揮させる技術,人間をエンパワーメントする技術の例として,パーソナルコンピュータ (PC) やインターネットが挙げられている.確かに,PCは人間ができることを劇的に拡張し,インターネットは人間の繋がり方を劇的に変え,我々はその恩恵を受けている.しかし,いつの間にか,インターネットとそれに繋がる端末を巨大なプラットフォーマーが牛耳るようになり,今や,人間がそれらの技術あるいは道具に使われる世界になってしまっているのではないか.

このようなことから,人間と道具の関係には,道具のない状態,道具を使う状態,道具に使われる状態があるように思われる.ここで登場するのが「二つの分水嶺」という捉え方である.

道具にはそれぞれに適切な規模というものがあり、わたしたちがその道具を主体性を持って使っている間はよいが、あるところから知らず知らずのうちにわたしたちはその道具に支配され、主体性を奪われ、いつのまにか道具に使われているような状況が生まれる。

本書にはこのように説明されており,さらに,デイヴィッド・ケイリーの言葉が引用されている.

第一の分水嶺を超える際に,道具は生産的なものとなるが,第二の分水嶺を越える際に,それらは逆生産的なものとなり,手段から目的自体へと転じるというのである.

では,我々の身近にあるコンヴィヴィアルな道具,第一の分水嶺と第二の分水嶺の中間,ちょうどいいところにある道具とはどのようなものだろうか.その代表例として取り上げられているのが「自転車」である.

イリイチは,主にエネルギー効率やパワーの観点から,人間の移動能力を拡張しつつ,それに支配されることのないバランスを持った道具の例として「自転車」を挙げている.

本書のみならず,ちょうどいい道具の例として,様々な人が自転車を引き合いに出している.スティーブ・ジョブスは「コンピューターは人類最高の発明品だ.心の自転車とも言える.」と述べた.さらに,本書では,元Googleのプロダクトマネージャーであるトリスタン・ハリスの言葉が引用されている.

自転車の登場に怒る人はいない.人間が自転車に乗り始めても社会を悪くしたとは言われない.自転車が子どもとの関係を疎遠にして民主主義を破壊するという人はいない.道具は静かに,ただ存在し,使われるのを待つ.道具じゃないものは要求してくる.誘惑し,操り,何かを引き出そうとする.道具としてのテクノロジーから,中毒と操作の技術に移行したんだ.ソーシャルメディアは道具ではない.

人同士を繋げてくれる道具であるはずのソーシャルメディアが,度を超して,第二の分水嶺を越えて,人間を「誘惑し,操り,何かを引き出そうとする」道具になってしまっている.そういう指摘である.その引き合いに出されているのが自転車で,コンヴィヴィアルな技術や道具を考える上で自転車は外せないようだ.

現代の「過剰なテクノロジー」の時代にあって,技術を人間にとって適切なものとするためには,
「科学の非神話化」=技術をブラックボックスにしない
「言葉の再発見」=言葉が世界に与える影響に注意を向ける
「法的手続きの回復」=行き過ぎた状態に対抗するための道具である政治や法に主体的に関わる
が重要であると指摘されている.

3つめに政治がキーワードとして登場しているが,イリイチは,これからの研究は,さらなる効率化や生産性を追い求め,人間をさらに依存と思考停止に向かわせるような研究ではなく,人間と道具のバランスを取り戻すために,それとは「逆の方向へ向かう研究」であるべきであり,そのためには政治による反転が鍵になると結論づけている.

テクノロジーあるいは道具がコンヴィヴィアルであるかどうか.それを確認する術を引用しておきたい.

道具が第二の分水嶺を越えると,人間が道具を使っているようでいて,逆に人間が道具に使われている状況が生まれてしまう.イリイチは『コンヴィヴィアリティのための道具』の中で,そうならないための多元的なバランスについて「生物学的退化」「根源的独占」「過剰な計画」「二極化」「陳腐化」「フラストレーション」という6つの視点を提示した.もう一度,それらを読み解いた次の6つの問いを振り返ってみよう.

そのテクノロジーは,人間から自然環境の中で生きる力を奪っていないか?

そのテクノロジーは,他にかわるものがない独占をもたらし,人間を依存させていないか?

そのテクノロジーは,プログラム通りに人間を操作し,人間を思考停止させていないか?

そのテクノロジーは,操作する側とされる側という二極化と格差を生んでいないか?

そのテクノロジーは,すでにあるものの価値を過剰な速さでただ陳腐化させていないか?

そのテクノロジーに,わたしたちはフラストレーションや違和感を感じてはいないか?

これらを踏まえて本書では,コンヴィヴィアルな道具,第一の分水嶺と第二の分水嶺の間にある道具,ちょうどいい道具について,それは「つくれる道具」であり,「手放せる道具」であると述べている.

以上は,主に人間とテクノロジーの関係についての話であるが,本書ではさらに,人間と情報とモノ,人間とデザイン,人間と自然,人間と人間,という様々な関係についても論じられている.

技術に関わる一人として,一研究者として,大切な視点を得られたように思う.

あと,デザインに関する面白い話が書かれてあった.かつてヒューストン空港では,荷物が出てくるまで乗客はバゲッジクレームで10分以上待たされ,苦情が絶えなかったらしい.あるコンサルティング会社は,スタッフを増員して待ち時間を8分に短縮した.しかし,苦情は減らなかった.別の会社は,乗客に遠回りさせることで,バゲッジクレームでの待ち時間をなくした.すると,苦情はなくなった.このような話だ.それを踏まえて著者は問うている.後者の解決策が優れたものとして紹介されることが多いが,それは褒められるようなものなのかと.それは人間(乗客)を操作しているのであり,格差(乗客の無知)を利用しているのではないかと.

目次
コンヴィヴィアル?
プロローグ
第1章 人間とテクノロジー
第2章 人間と情報とモノ
第3章 人間とデザイン
第4章 人間と自然
第5章 人間と人間
第6章 コンヴィヴィアル・テクノロジーへ
第7章 万有情報網
エピローグ

© 2022 Manabu KANO.

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集