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「実力も運のうち 能力主義は正義か?」

有名大学に合格した学生が,合格したのは自分の才能と努力のおかげであり,自分の才能と努力は賞賛されるに値すると考える.金儲けに成功した人が,成功したのは自分の才能と努力のおかげであり,自分の才能と努力は賞賛されるに値すると考える.

より一般的に,自分自身の成功は,幸運や恩寵によるものではなく,自分自身の努力にって獲得するものである.富や名声や権力を自分の力で手に入れた自分は,それらにふさわしい人間である. こういう能力主義(メリトクラシー,功績主義)的な考え方に反感を抱く人が大勢いるのは当然だし,それによって社会は分断される.

実力も運のうち 能力主義は正義か?
マイケル・サンデル,早川書房,2023

社会学者で英国労働党のブレーンだったマイケル・ダンロップ・ヤングが「The Rise of the Meritocracy(メリトクラシーの法則)」を書いたのは1958年.それ以来,能力主義あるいは功績主義(meritocracy)という用語は広く使われるようになったが,そこで既にヤングは能力主義の問題を指摘し,能力主義の未来を予想している.

2034年,教育水準の低い階級が能力主義的エリートに対してポピュリストの反乱を起こすだろう,と.

現実の世界では,2016年,イギリスではブレグジット派が勝ち,アメリカではトランプが勝った.いずれの支持層も非大卒者が多い.マイケル・ダンロップ・ヤングの予言が成就したわけだ.18年も早く.

能力主義(功績主義)はキリスト教の教えと切り離しては考えられない.

人が善良であれば神が救済するというなら,善良な人を神は救済しなければならず,神は人の行動に制約されることとなり,その全能性は否定される.一方,人の善悪と神による救済が無関係であるとするなら,そこに正義は存在しない.神が全能かつ正義であるためには,神が人に自由意思を与えたことにすればいい.善も悪もそれを行うのは人であり,その人に責任がある.そう考えれば都合がよい.

そこで,人は自由であり,その努力によって成功できるし,成功した人はその成功に値すると能力主義は想定する.この勝利主義的態度は,勝者には奢りをもたらし,敗者には屈辱をもたらす.このようにして,神の救済に関する議論は,能力や功績をめぐる議論に影響している.

しかし,能力主義は行き過ぎる.

幸運な人物が幸運であるという事実に満足することはめったにない.自分には自分の幸運に対する権利があると知らねば気がすまない.他人と比べて自分は幸運に値するのだと確信したがる.幸運でない人は当然の報いを受けているにすぎないという信念が認められることを望む.(マックス・ヴェーバー)

将来の成功をより確かなものにするために必要とされているのが「学位(大学卒業)」である.特に,一部の名門大学を卒業することが成功への切符であると広く認識されている.このため,アイビーリーグなどトップ大学の入学試験は熾烈を極める.

それでも,昔のように家柄や肌の色や性別で合格者が決まるのではなく,成績に基づいて合格者が決まるのなら,その方が公正だろう.多くの人はそう考える.そして,受験者の能力を見定めるために,共通テスト(SAT)が実施されるようになった.できるだけ本人の能力そのものを測ることを目的とした試験だが,その共通テストで高得点を取ることが合格の条件となれば,誰もが対策に励む.裕福な家庭であれば,このために受験コンサルタントを雇い,共通テスト対策どころか,どのような課外活動をしておくべきかの指導も受ける.その結果,共通テスト(SAT)の成績は家庭の裕福さと強い相関を持ち,名門大学合格者のほとんどが富裕層の家庭出身である.逆に,貧困層の家庭からは名門大学にほとんど合格していない.

新たな階級制度ができてしまっている.それでも,昔のように家柄や肌の色や性別で合格者が決まるよりは,ましなのだろうか.

昔のように家柄や肌の色や性別で合格者が決まるなら,合格できない原因は自分にはない.不可抗力である.しかし,建前であっても個人の能力で合否が決まるというのであれば,不合格は自分の能力のなさが原因となる.

有名大学に合格した学生は,合格したのは自分の才能と努力のおかげであり,自分の才能と努力は賞賛されるに値すると考える.不合格になった学生は,自分の能力が足りなかったためだと思わされる.合格しようが不合格になろうが,成績というひとつの指標で,そのような奢りと屈辱を与えていいのだろうか.

大学入学試験の過酷な競争を緩和するために,ある水準の学力が認められた受験生からランダムに(くじ引きで)合格者を決定するという方法はどうだろうか.昔から提示されている方法だが実現された例は知らない.だが,運任せにすることで,勝者の奢りと敗者の屈辱を緩和できる.合格したのは俺様の能力と努力のおかげであり,不合格になった奴らはそのいずれかが欠けているのだという,高慢な考えは少なくとも現状よりも抑えられるだろう.

雇用と職業訓練に費やされる金額を,助成金,貸付金,税額控除といった形で高等教育に費やされる金額と比べてみよう.2014-2015学年度には,大学進学者を支援するために総額1620億ドルが費やされた.一方,教育省が職業および技術教育に費やす金額は年間およそ11億ドルである(イザベル・ソーヒル)

アメリカが雇用と職業訓練をなおざりにしてきた一つの理由は,高等教育への出資に重きが置かれてきたことだ.その前提は,誰もが大学に行く必要があるということのように思える.(イザベル・ソーヒル)

実際に大学を卒業するのはアメリカ人の1/3にすぎない.学位こそ成功への入口だという能力主義の帰結がこれである.

労働者・中流階級世帯の購買力を増して不平等の埋め合わせをする,あるいはセーフティネットを補強するという政策提案は,いまや根深いものとなった怒りと反感への対処としては役に立たない.なぜなら,その怒りは承認と評価の喪失から来ているからだ.購買力の縮小は確かに問題だが,働く人びとの怒りを最もあおっているのは,生産者としての地位が被った損傷である.この損傷は,能力主義的な選別と市場主導のグローバリゼーションが相まって生じたものだ.

能力主義・功績主義の前提は機会の平等である.このため,誰にも同じように機会が与えられていること,そのような社会であることが良いこととされ,その上で,能力主義による結果は受け入れるのが当然だという価値観がはびこる.能力主義の社会で勝ち残るためには大学を卒業するのが当然だということになる.少なくとも,大学を卒業した人達にとっては.そうして,能力主義社会のエリートは,教育水準の低い階級を突き放す.奢りだ.アメリカでは民主党のバラク・オバマやヒラリー・クリントンがそうであり,そのエリートを攻撃したのがトランプである.多くの問題を抱えていながらもトランプ人気が衰えないのには理由がある.

この分断された社会を修復するのは簡単ではない.

目次
序論 ― 入学すること
第1章 勝者と敗者
第2章 「偉大なのは善良だから」 ― 能力の道徳の簡単な歴史
第3章 出世のレトリック
第4章 学歴偏重主義 ― 何より受け入れがたい偏見
第5章 成功の倫理学
第6章 選別装置
第7章 労働を承認する
結論 ― 能力と共通善

© 2024 Manabu KANO.

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