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季節感というのもいつかレトロな感情になるのかな

 

"暑さ寒さは彼岸まで"
と言われて育ちました

 確かに盆を過ぎると、どこかおセンチな秋の空気に一気に切り替わります。というか、四季の切り替わりというのはハッキリとしていて、田舎暮らしも長く野生児のように育った私は"昨日と空気が違う"のに気がついて季節の変わり目を感じていました。
 
 この感覚というのが分かる方もいらっしゃるのでは無いでしょうか?


 冬の空気というのは、冷やした金属を全身に突きつけられた、あるいは身体を切り付けて来るような尖った空気をしています。   

 春の空気というのは、冬の空気から角が取れて肌にまとわりつくような丸くて柔らかくて暖かい空気をしています。

 夏の空気というのは、肌にまとわりつくような丸い空気感から荒めのサンドペーパーのようなザラザラとした空気です。

 秋の空気というのは、夏の空気の荒さを薄布で包んだ様です。春の空気に似ていますが、冬の空気のトゲトゲしさの予兆を感じます。


と、言うのが私の持っている明確な季節感です。
 人によって感じ方はそれぞれです。


 ここ数年はこの季節感が明確ではなくなって来ました。正確に言うと今まで季節感を感じていた時期になると体調を崩す様になりました。単なる老化なのかは分かりませんが。

 私にこの先子どもが出来たらこの季節感というのは伝えられるのでしょうか?或は感じ取ってくれるのでしょうか?

 平成レトロという言葉が少しずつ浸透して来ました。私たちにとって当たり前だったコンテンツや感覚、感情がいつの間にかレトロの扱いになっています。
 それは、時間の経過や技術の進歩によってもたらされた言葉です。

 しかし、いつか私たちが感じ取って感覚や感情を揺さぶられた季節感というのもこのままでは失われてしまう様な気がします。明確な夏や冬はあるとは思いますが、春と秋という過度期、狭間の季節の境目が曖昧になっていくのでは無いでしょうか?

 日本の様々な文学作品や映像作品にこういった季節感の描写や表現がありますが、このままでは私たちの次の世代に伝わりにくくなって、いつからかレトロ・エモという言葉で一括りにされる世の中が訪れるのでしょうか?

 或は私たちが捉え続けた季節感やそれに纏わる感情、表現エトセトラが新しい形になるのでしょうか?



 あれだけ私の頭を割らんばかりに鳴いていたセミたちは一瞬で何処へ行ったのか気がついたらスズムシやコオロギが鳴いています。

 スーパーには秋刀魚やマスカットが並ぶ様になりました。

 残暑こそ厳しいものの、朝夕の空気はいつの間にか丸みを感じるようになった今日この頃、通勤の道すがらそんな事を考えました。

 

 

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