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金持ち温室青春映画

HAPPYENDを観る。
んー。
いや、キャラクターたちの高校生感や、彼らが生きる世界(2040年代)の異世界感ある風景、照明の使い方などは本当に好き。
ただ問題は、単なる青春の終わりを扱った作品として済ませればいいところを、あれやこれやと雑音つきで作ってしまったところだ。
何よりも地震やら政治やらの要素がまったく不要であり、ただ「これを付け加えれば社会派な作品になるだろう」という安直な思惑を感じた。
俺は予告編を見た時、「独裁が始まろうとする社会」と、それを反映したような「監視システムによって不寛容になりつつある学校」が、最後に地震によって破壊されるものとばかり思っていた。つまり彼ら若者の未来がお上のせいで破滅に瀕している世界で、最後に本当にドデカい破滅が訪れる。そうして全てフラットになった世界で1からやり直す。
それこそマグノリアのラストに降るカエルのごとく、何か最後に大きなことを起こして作品を締めるのだ。でなければ作品として終わらないだろうし、わざわざあれやれこれやをぶち込む意味がないからだ。
そして、この映画全般に渡ってそんな筋の通った意味などなかった。
つまり体制に反抗し、対立することと、主人公のコウとユウタ二人に訪れる別離がいまいち結びつかないのだ。
本当にそれら2つを関連させたいなら、まずコウの「世界を変えたい、そのためには反抗も辞さない」という態度をもっと過剰に描き出す必要があったと思うのだ。たしかに作中でコウは「いつまでも楽しいままでいいのか」という葛藤を抱えているが、それが特に行動に直結することはない。ただ最後の座り込みで差し入れを届けただけだ。
これだけでユウタとの別離に繋げられても「はい…」としか言いようがない。
これならコウはもっと過激なサボタージュに身を投じるようになった方が良いのではないか。それこそ機動隊相手にゲバ棒で殴りまくって一人二人殺したことで警察に追われ、結果卒業式に出れず、最後にあの歩道橋の上で君の名はのごとく偶然再会する。そしてユウタはユウタで過激化するコウにドン引きしていたので「俺たちの関係、変わっちゃったな」などと言って別れていく……。
こうすれば変わり行く世界に引き裂かれた二人というのが強調されたように思う。映画なんだからそれくらいカリカチュアライズされた演出でもいいのではないか。
何でこんな映画になったのかというと、それはおそらく作品全体に漂う“余裕”のせいなのではないかと思う。
つまり作品全体が小綺麗で、中産階級特有の余裕に満ちているのだ。底辺の辛さというものがまるでない。
それが作品に美しさをもたらしているが、同時に終わりゆく世界に対する切実さを削いでしまっている。
何でこんな風になったのかというと、それはおそらく監督や演者がおそらく全員中産階級以上のポジションにいるからではないか。
監督は坂本龍一の息子(つまり金持ち出身)だし、主役二人もおそらく裕福な家庭で生まれたに違いない。
そんなのが「将来が不安だ」だの語られても「お前らはそんな風に感じたことなんかないだろ。恵まれてるんだし」としか思わないし、「為政者はクソ」だの語っても「そんなこと考えて生きていられるのはお前らが裕福であるがゆえにヒマだからだよ」としか思わんのである(貧乏人の妬みと嫉みと僻み)。

つまりこの映画は時代から隔絶された温室映画なのだ。
それゆえの美しさはあるし、好きではあるが、そこで語られるものはどこまでも空虚な幻想だ。君の名は以降の新海作品がもてはやされる現代において、それは確かに必要だとは感じるが、それが「社会派である」と曰われても「黙れ」としか言えない。

ただ映像はホントに良いので、実写版秒速5センチメートルはこの人にやってほしいと思う。

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