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失恋をズルズル引きずってるせいで人生詰みかけてる

「バタフライ・エフェクト」という言葉をご存じだろうか。元は力学用語なのだけれど、この言葉が流布した現在では、「ほんの些細な出来事が、看過できない後の大きな出来事のトリガーとなる」というような部分が拡大解釈され、所謂「運命」について、それとなく合理的に、辻褄が合うように説明する際に用いられる語へと変化している。多分ね。

そんなバタフライ・エフェクトの例として、こんなものが考えられる。

「ある青年は、髪を切ったことで、付き合っていた人の事を性懲りも無くまた思い出し、文字に起こす」

どうだろう?現実妥当性はあるだろうか?こんな事がありえるだろうか?

この文章のバックボーンを推測してみると、

青年が髪を切る→心がスッキリする→だから、部屋の掃除をしたくなる→そうすると部屋の隅から、思い出の品が待ってました、とばかりに顔を出す→青年は再びその人を思い出し、しばし思案に暮れる→文章として、それを吐露する

…こんなところだろうか。そんな小説みたいに都合良く進むか?と疑問を抱くかもしれないが、これは、十二分にあり得る文章だ。

なぜなら、この青年とは僕だからだ。

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少し前、要らない服を売った。だけれどもう、売った服が何だったか忘れてしまった。

物を捨ててしまえば、捨ててしまった物が何だったのか、という記憶自体も捨ててしまうことができる。

同じようにして物事を忘れてしまえば、忘れてしまった物事が何だったのか、という記憶自体も忘れてしまうことができる。

そういう訳で、断捨離という行為は理に適っていて、積極的に行っていくべきだ。

だから、掃除をしたときに出てきた思い出の品についても、別れた時にすぐさま捨ててしまえば、それを再びしまっておくために「思い出箱」を開ける必要もなかったし、こうして文を書くことも無かったのだ。

「物を捨てないでいたことで、それが半年後に苦悩のタネとなる」

これもあり得る話だ。なぜなら、これも僕だからだ。

さて、苦悩苦悩といえど、その出来事があってから今この瞬間まで僕がそのことについて延々と苦悩していることはもはや明らかなのだが(過去記事参照)、それを踏まえても、今回はとりわけ深刻なようであった…。

■そういう訳で僕はあの人のこういう所がやっぱり好きなのでまだ忘れることができそうにない


「なんだよそれ、」と思わず笑いたくなるユーモアと情緒とがまるで太陽の様に暖かく感じられたから

さて、その「箱」の中には数年分やりとりした手紙が入っている。僕は手紙を送る時に、宛名のところに「〇〇へ その①」というように書き、送る度に数字の部分を②、③…と増やす以外は何も手を加えなかった。

ところが貰った手紙はどうだろう。「髪を染めたよ!気付いた?〇〇より」「1000円カットが似合う素敵な〇〇様へ」「重くて重くて仕方ないけど、〇〇が大好きって思ってる〇〇より」

…捨てられないが、読むのも眩しくて辛い。

卒業旅行に行ったときにわざわざ作ってくれたスケジュール表なんかも出てきた。旅のテーマやルール、一日の感想の欄などが、健気なクオリティで記されている。

説明するのは難しいのだけれど、例え無関係の第三者でも、これを作った人が旅行をとても楽しみにしていたことを一瞬で理解できるほどのクオリティだ。

その時の僕は(今でもか)、素直に「ありがとう」とか「好き」とか、それだけの事をしてもらっていても、感情をストレートに伝える事はなかった。あちら側からの贈り物は、物それだけを通しても気持ちが伝わってくるというのに、僕の贈り物は一体どんなちっぽけに映っただろうか。

…とまあ、そういう天真爛漫さと誠意と面白さが混ざり合ったその人格がとてもくすぐったくて、でも心地よかった。

それを僕だけじゃなくて、誰にでも振りまいている感じが太陽のようで、でもその一方でそれを「どうして僕にだけじゃないんだろう」と嫉妬する感じもあったし、自分にないものを持っているという意味で憧れでも眩しくも羨ましくもあったし、そういう人間が僕を選んでくれたという誇らしさのようなものもあったし、僕自身も何か変われるかもしれない、という嬉しさもあったし、とにかく複雑な感じだった。

「あなたの色んなところが素敵で、でも嫉妬でおかしくなってしまいそうで、でも、それでも好きです」とでも言えば良かったのだろうが、こういうものは、インターネットの端っこにこんな風に書き記すのではなくて、目の前で直接伝えるべきことだったのだ。


・それらは打算的でなく輝かしい青春のようなもので、高校の思い出とその人との思い出がほぼイコールで、どうやっても忘れられないから

高校入学時のしおりも、捨てようとして思いとどまった。高校時代の始まりを思い出したのだが、それはその人との始まりを思い出すことでもあったからだ。

以前にも書いた気がするが、僕はどちらかと言うと淡泊で、無機質で、現実主義的な人間だ。しかしどこか頭のおめでたい所があって、こんな人間だからこそ、出会いだけはどこか非現実的であって欲しいというか、運命的であって欲しいというか、敷かれたレール上ではなくて、誰も知らない道端でバッタリと出会いたいというか…。

僕と正反対の人に現れてきて欲しいという大変我儘な願望があるのだけれど、その人は偶然にも、それに全て沿い、満たした。

だから、忘れる事ができるかどうかは置いておいて、忘れない事にした。高校でこんなことあったよなぁ、と思い出すと、その人も出てくるので、忘れない事にした。

さて、この年になると、早くも恋愛が別の側面を帯びだしてくる。相手の素性は?お仕事は?もし続いてしまったら…結婚願望は?将来は?

嫌でも現実から段々目を背けられなくなる。そうなってくると、そういった一切を考えず、ただお互いがお互いへエネルギーを注ぐだけでよかった(だけ、というほど単純ではないけど)純粋な人付き合いが眩しく懐かしく羨ましく思えてしまうのは当然のことである。

そういう意味では、この項は「好き」よりも「忘れられない」という側面の方が強いと思われるだろうが、藁に縋らせてくれたっていいだろう。


その人といる時の自分が好きだったし、その人も僕を嫌いになってくれないから、僕は好きを辞められないままだし、嫌いにもなれないから

話を有耶無耶にしたまま、はいサヨナラ、となってしまえば幾ばくか楽だったが、けじめをつけるためには、直接会う必要があるようだった。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」とはよく言うが、別に女の人だって数か月あれば変わる。と言っても生活様式くらいで、人格は16歳までに決まってしまうとも言うし、中身は何にもだった(いい意味で)し、始めてお邪魔したその家にも、その雰囲気にも、どこか昔から知っていて既に打ち解けていたような、親しみのある色合いを覚えた。

だから、会話のキャッチボールは恐ろしいほど滑らかだった。その人は、相も変わらず僕が「あ」と言ったら「うん」と言うし、僕が(ここ笑い所なんだよな)と組み立てて話をしたなら、何も言わずとも適切なタイミングで笑みが返ってきた。

それはとても心地良いものだったし、好きだった。だから、それまでしてきた忘れる努力も意味が無くなって、その時間もその人も好きだということだけが分かった。

…しかしその変化の無さは、かえって半殺しにされているような気分だった。好きじゃないのなら、嫌いになっていて欲しかった。いっその事、僕と全く反りの合わない人に変わってしまっていて欲しかった。僕の全てを拒絶するくらいにまでなって、諦めを簡単につけさせて欲しかった。

だけれど実際はそうでなく、その人は僕の事を好きじゃないだけで嫌いにも見捨てることもできず、相手もむしろ僕を直接視界に入れたせいで迷い、迷える子羊が一匹から二匹へと増えただけのようだった。

連絡が取れなくなれば忘れるしか手段がなくなるんだから、相手の事が好きじゃなくなったそっちが連絡先を消してよ、と伝えても、ダメなようだった。お互いその場ではどうすることもできず、今後どうなっても、僕(たち)は救われないことが明らかとなった。

ああそうだ。塩の分量間違っちゃった、と言いながらコンソメスープを御馳走になった。温度、塩加減、キャベツ、玉子。どれも調度よくて、分量を間違ったと言う割には、後ろ髪を引かれる思いで啜らなければならなかった。

もう、連絡してきちゃダメだよ、という会話をして、家を出た。

これで終わるなら、まだいい。次の日に、今度は言い出しっぺのあちら側から連絡が来た。お互いという人間はどうやら思った以上に重症らしかった。

その時の僕はそれをどんなにか喜ばしく思っていたのだが、こういう場面でもやっぱり素直になれないようで、「けじめつけたんじゃないの?」と意地悪を言った。

それは、「やっぱりつけるのやめた!」というような、僕に都合の良い返事をしてもらうための「フリ」みたいなつもりだったのだが、これが致命傷だったらしく、連絡はそれきりになった。

これは流石に激しく後悔した。あんなに望んでいた相手からの好意を自分の手で断ってみせるという意味の分からなさだけでなく、悪いのは僕であるのに、相手にまるで負う必要のない罪悪感を負わせて終わったからである。

友達なら全然いいと言われたけど、僕という人間の構造上、それは無理な事だった。

完全に絶ち切らないのなら、それこそ小学生が好きな子にちょっかいかけるような感じできっと僕は懲りずにいろんな形であなたの人生に出てきて邪魔をするだろうけど、それは嫌じゃないの?何ならけじめなんてつけなくていいんだよ?と悪魔の囁きをしてみる。


■当分の僕の恋愛は「忘れるため」が主軸なので恐らく上手くいかず、奔走のうち、先に人生が詰む

そういう訳で今の僕は、少し言葉は悪いが紛れの無い恋愛障碍者である。

ほぼ初めての人付き合いが4年も続いてしまったせいで、僕の中の基準はただその人一人に定まってしまっているし、今後常にその人の影を新しい誰かの後ろに重ねてしまうだろう。

出会って別れてなんてこの世の中にあまりにもありふれていて誰だって経験しているのに、「こんな辛い思いをしているのは僕だけだ」といつまでも塞ぎ込んで殻に籠っているのだろう。

そうなると、誰かと深く付き合う理由の中に、好きだとかいう感情以外に当然「何かを忘れたいから」という独りよがりで不純な動機が含まれだすのだが、それは相手にとっても大変失礼なことだし、いい迷惑だ。気を紛らわすために都合よく、だなんて誰だっていい気分にならない。

算数の勉強が嫌で、そこから逃げ出したいから国語の勉強を頑張る、というのと、国語が好きだから国語の勉強を頑張る、というのでは、熱量も成果も大違いだろう。きっとそれと一緒なのだ。

そしてそのうちに弱気な自分が出てきて、「忘れられるなら誰でもいいじゃない」だとか、「私に押し付けないで」とか、「誰かと重ねないで」とか、至極真っ当な理由でフラれでもして、また同じことを思い出して、自分で自分の人生を辛くさせて、をきっと繰り返す。

僕だってこんな自分は嫌だし、スッキリしない。でも、僕にだけ都合の良いそんな人付き合いを肯定してくれる人間は、20年生きてきたなりに考えてみれば、まずいない。いないから進めない、進めないから治らない。

…な悪循環に陥りかけているのだが、どうやら人生とは僕が思っているほど捨てたものではないらしく、いつまでもズルズル引き摺るこんな僕を理解しようとしてくれる人間も片手の指の本数くらいはいるみたいで、そういう人と機会とをせめて大事に、何かのきっかけにしていこう、とは思えた。

失恋から半年。僕はもう一度、脳みそのキャパシティーのうちの多くを割いて、もう何度目か…再再再くらいの立ち返りを行う必要があるようだ。


■人生詰みかけてるけど、あとがき

近い人の死を初めとして、広く別れというのはかなり人の心にショックを与えるのだけれど、それでも人はそれを超克して、より高次で深みある人間へと成長していくらしいです。

僕も同じ人間ですので、このことから逆説的にこの悩みもいずれ乗り越えられるものであるということが分かります。今はもう少しだけ立ち止まって考えてみて、いつか、こんなことで悩む暇がないくらい色んな考え事で左脳と右脳と前頭葉とを埋めてしまおうと思います。

「なかなかにもだもあらましなんすとかあいみそめけむそげざらまくに」

高校で遊んだ百人一首、その何かひっかかった歌のひとつ。この歌の意味も今なら解るのでしょうか…。


こんな女々しい文章を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました😇









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つばさ
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