皆既月食明けの空に考える、幸福論
パートナーはいるの?と最近できた吉祥寺に住んでいる友人に聞かれ、その聞き方、吉祥寺の人っぽいな、と思った。2人いたどちらもがそれぞれパートナー、と聞いてきたからその界隈では当たり前なのかもしれない。(翌日最寄駅のバーで飲んでいる時に声をかけてきた50歳の男性は彼氏はいる?と聞いてきた、良い悪いではなくて、世代だな)なんかよかったので、記録。吉祥寺、いい街です。最寄も。
幸せについてよく考える。幸せって感じるものなので、当然絶対値で感じたいしそうで然るべきものだと思うけど、結局相対化してしまうのが性すぎる。その幸せを共有できる人がいたらそれは増幅するわけで、それはあくまでもひとりで感じられる幸せをまるっとその形で受け止められてこそだと思う。(学生時代に、かんぺきな春の陽気の中で幸せすぎて友人と涙したのは増幅の極地だった)
一人暮らしをできるくらいの給料をもらい自分も家族も五体満足の健康体で気のおけない友人がいて新しい出会いもあって、十分に恵まれているのにもっと欲しがってしまうのは何故なのか。
一人で歩く人もたくさんいるのに、道を歩くカップルや家族連ればかりが目に止まります。
当たり前の幸福を実感できない人間がそれ以上を求めても虚しくなるだけなのだが、最近は専ら寂しい、もっと幸せになりたいと思ってしまう。冬やからかな。
でも朝の5時に目が覚めて、まだ星がよく見える冬の朝をひとり散歩する時間とか、西に丸く輝く月を眺めたり(地平線に近いほど大きくて嬉しい)、朝日が昇るまでの空の色が変化する時間をじっくり楽しめている時は、安心する。心から幸せだと思えるし、何度見ても嬉しい。
自然は、強すぎる。
惑星食と皆既月食が観測できた昨日、空を見上げる人の多さにわくわくしたのと同時に、写真だけ撮ってすぐに歩き始める人の多さに辟易とした。それ、見返すこときっとないやろ、と。
今朝、朝6時の月が落ちるぎりぎりで、朝日が昇る前の白んだ空が今日は少し紫がかってた空が綺麗すぎて、交差点を曲がって認めた瞬間ほんとうに声出そうになった、日々こういうことだけで充分で居たい。
自然はいつも、幸せは絶対値でありまずは自分だけのものだと思い出させてくれる。
まあ、これを投稿している時点で私も承認欲求と社会的安全欲求で満たされたくて飢えた人間だなあと少し悲しくもなります、人間ってほんとうかわいいものですね。