メサイアコンプレックスって!?なにがイケナイの?
ひとを救う、救われることのなにがいけないのか。
毎度のことだが、私の経験と主観をもとに綴るのでスッキリした読後感を得られるものではありません。
私は過去に救おうとしたひとがいて、あるコミュニティから解放されて自由になれるよう相談を聞いたり助言をしたりしていた。
一部、行き過ぎがあって、カオスな状況になりそのひとは再びコミュニティに以前より強く拘束される結果になってしまった。(モザイクかけてます)
救えなかったことや自分の至らない行いを悔いて落ち込んでいた私を、同僚がとある宗教施設に連れて行って懺悔のようなことをさせて、ここでは誰にも咎められないと思った私は号泣した。
私は現実を儚んで泣いたり、悔しかったり悲しかったりして泣くことはないのだが、このときは「救えなかったこと」に対して無力感で泣いた。
自分でも驚いていた。
同僚は、私をいち早く入信させようとして焦って行動しているのが見てとれた。そこは冷静に見ていた。落胆し、絶望しているときこそチャンスである。神や仏にすがる瞬間である。
私が救おうとしたひとは、のちに自らコミュニティを出たと聞いた。
嬉しいような力の抜けたような複雑な気持ちになったと同時に、私は自分に強く不快感を抱いた。
ここにメサイアコンプレックスに陥っていると思われる人物がいる。
私、私が救おうとしたひと、同僚
の三者である。
私たち三者は客観的に見て、お互いに対する行動が過剰であった。
いつも、誰にでも、というわけではないが、当時の我々は何かが狂っていた。
実はこの同僚は二人いて、二人がそれぞれに「自分が」私をとある宗教に入信させようと綱引きをしていた。
しばらく、プレゼント攻撃や自宅訪問(ほぼストーカー)、鬼電(わかりますか?)が二人から止まなかった。
なので、実質四人が狂っていたのである。
このように困っているひとを救いたい、困っているから救われたい場面というのはしばしばあることだ。
ただ、メサイアコンプレックスがいけないのは介入しすぎる、あるいは自分の非力を見せて介入させすぎること。
どちら側も問題になるのは
自分の力を信じ切ることができていないことである。
救って満足しようとする者の問題は、自分がたったひとりで満たされていると芯から感じられていないので、ひとを救えるくらいの立場にあると自分を信じ込ませるために他者への救済行為を求める。ややこしや。
救われようとする者の問題は、自力で問題に対処できると意志決定することを回避し、助けたい願望の強い者を引き寄せて共依存(閉じ込められた関係)に持ち込む傾向があること。ややこしや。
このような傾向をもつ原因の多くは幼少期の保育者との関わりにある。
双方が寄り添って上手くことが進んでいる間はなんの過不足もないように感じられるが、どちらかの感情が保てなくなったり、立ち去ったり、第三者の介入で関係が崩れたりしたとき、精神的、または経済的な損害が明るみに出る。
繰り返しになるが、助け合うこと自体はなんの問題もない。
ここで言うのは、本人が自分へかたむけるべき自助努力の機会を奪うくらい介入することがよくない、という社会通念があるよって話。
周辺の誰もが認めるならば、究極どこまでドロドロと関わり合っても構わないんじゃないかと私は思うんだが。破綻したらきっと誰かが助けに入る羽目になるという無限ループ。負の悪循環。生きながら地獄。それも美味。←癖
職業で対人支援するひと、教員、医療関係、福祉関係、カウンセラー、セラピスト、占い師などが、このような心理に陥り易いと言われている。
ほとんどのひとは自制心とともに働いているであろう。
私は、占い師の時にはそういうことにならない。
相談者に特段、強い感情を抱かないからだ。
強い感情を持つと最後まで鑑定書を書き上げられない。
もしそうなったら廃業しなければならない。そのくらい自制心を保たないと継続できないような案外、孤独で地道で冷めた作業の連続である。
冷めてるんだけど、対面鑑定(セッション)のときの占いは
スプレー缶のホイップクリーム(業務スーパーに売ってる)のようなもので、
「今日はふざけて一本全部出そう!」
って勢いで相談者さんとクリームをパンケーキにかけまくるようにしゃべり倒す。お互いに。
私の占いは一回きり(依存を回避している)なので、恥もなにもない。どうせ二度と会わないのだ。
で、今日は楽しかったですねーーー!!!って別れる。
悲壮感など微塵もない。
ほかの占い師さんのことはよく知らないけど、私はこんな感じ。
まぁ、そういうわけで(どういうわけだ)過去の失敗を胸に今日もふざけて生きているのである。
距離感は適切にね!
覗いてくれたあなた、ありがとう。
不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。
また、私の12ハウスに遊びにきてくださいね。