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『青鬼の褌を洗う女/坂口安吾』朗読した📚妖婦に振り回されたい男のロマン。

私は坂口安吾の文体が好きだ。潔い。
といっても、読んだのは過去記事に書いた『恋愛論』と、この『青鬼の褌を洗う女』だけ。
あの有名な『堕落論』は一文字も見ていない。

青春の頃から本を選ぶときは文庫の裏のあらすじと、文体を見て決める。
今回は、朗読するために青空文庫を探っていて、ちょうどよい長さとストーリーが決め手になった。
私は関西にしか住んだことがなく標準語はニュースを聴いて知ってるだけ。
周りに話すひとがいない。
だから、単語のイントネーションがおかしいから長い朗読は関西弁でないとできない。
それを隠して長編を読んでいたとき(『蜜のあわれ/室生犀星』)はとても辛かった。アナウンサーの学校とか行ってないしほんまにどう読むかわからないまま朗読していた。
坂口安吾は一目で直感的に関西弁が合う文だとわかった。
『青鬼の褌を洗う女』はもろに東京の話だから江戸言葉のような語尾がいくらか登場したが捻じ伏せた。文はもちろん原文のままで読んだが。

とにかく坂口安吾は地の文がシンプルでひねていなくて「そのまま」である。隠された要素がなくあっけらかんとしている。
私はそれが好きだった。
これは、小説に登場する「私/サチ子」の性質にも通じている。


こっからネタバレ行きます。

サチ子は妾の子、つまり実母は父親の愛人であった。
いつも傍に父の姿はなかった。
母を憎んではいるが、自分もどこかしら「オメカケ性」と自認している。
ありふれた家庭の母の姿を知らないから当然のことだ。
それを少しもいけないとは思っていない。
友人の登美子さんにたびたびその誘惑的な性質をなじられるが、自分は素直なだけだと思っている。
「女の子らしい」とされる恥じらいや駆け引きを見ていると、かえって浮気ではないかと感じる。
サチ子は男との関係をササっと済ませる。もちゃもちゃしない。
行為に至るまでに時間をかけない。
そして、後腐れがないよう注意を払う。
つまり、深い情など発生させないようにしているのだった。

サチ子を処女として高く売ろうと目論んでいた母の手を逃れて、出征前の六人もの男と関係したり、登美子さんが狙っていた男と連れ歩いたりする。
けっきょく戦後に引き取ってくれた会社の専務・久須美の愛人として暮らすことになる。
久須美は何不自由なく暮らさせてくれた。
いつもサチ子を気遣ってくれて洋服や食べ物を与えてくれた。
家事をさせたりしなかった。
でも、自分を愛してはいないことをサチ子は知っていた。
ただ、若さが眩しい。それだけだと思った。
久須美とそんな話しは決してしない。
野暮なことは嫌いなのだ。
久須美はオジイサンで私は若い。そんなことどうでもいい。
私は男に媚びて全然構わない。

間で別の男と逃げて、ちょっと深入りしかけたら心中させられそうになったり……。

そういう物語。


私はサチ子の考え方をとても気に入っている。
この小説にはサチ子の誕生日が出てこなかったのをとても残念に思っているくらいだ。誕生日だけでも占い師の妄想が広がるから。

私自身の母親は結婚して姉と私を産んで、DVサラリーマン父と別居して愛人稼業をはじめて何人か男を取り替えて(お金持ちもそうじゃない男もいた)その姿をいつも見せてくれた。
オジサンとの食事にたまに呼ばれて、媚びるとはどういうことかを見て知っているし、あのオジサンとするのかぁなどと思った。
母という女の一生を見て、カップルの多様性を見た。
夫に尽くすこともよし、愛人として悠々あるいは汲々とするもよし、喧嘩別れもよし、愛してるから別れるのもまたよし。といった具合だ。

偏見を持たないということは、一応全部見てフラットに判断することだと思う。

「不倫」「愛人」を世間は汚いものや見てはいけないものとする。建前で。
実際に妻が泣いている、こどもが泣いている、そういう家庭もあるだろうし、あーまたやってんなうちの親、またはうちのパートナーってそういう奴だし、と思っている家族もいる。いろいろ。
結婚が十人十通りであるように、不倫関係もさまざま。
家族というのは隠された関係であって実のところは伺い知れない。
だから、余所者は考えるだけ無駄である。
私は母が不倫していると知ってとても驚き別居中のDV父がかわいそうに思ったが、後年父からも浮気の経験があると聞いて笑った。なんだあんたもか。

そういう私から見てサチ子は、とんでもない性悪でもないし、久須美が好んですることを有り難く受け取っているだけで、とても素直だと感じている。
妾が100%悪だとは私には思えない。


しかし、やはり女は演技をしていて、男に媚びている。
男が見ているのは実在しない、女だ。
小説内でサチ子が我が身を振り返って言う。
久須美が創造した媚態。久須美によって生まれた私。
男が喜ばせてくれるから、感謝で返す。
それまでには存在しなかった私が特別な男に媚びることで登場する。

それがとてつもなく魅惑的なのだ。

女を理想の妖精に仕立て上げるのは男の腕である。
すてきな女がどこを探してもいない、と思っている男は自分に「媚びさせるチカラ」がないのかもしれない。それは決して金だけじゃないと思う。

どんな男も自分だけのファム・ファタールを探し求めていると思う。
私は男ではないので想像でしかないが。
私は誰かにとってそうであったら楽しいと思って生きている。
それはなにか完成された生き物ではなくて男女の出会いによって起きるハプニングだ。
誰かのパートナーがそういう人物であったとしても隠されていてわからないのがふつうだろう。四六時中、妖しいのはかえってダメである。
運命の相手だけがそれを引き出せるのだ。


冒頭に添付したのは『N.P』という映画である。
私はまだ観ていないのでなんとも言えない。
吉本ばななの小説『N・P』が原作だ。
私の青春ど真ん中の頃に、愛しすぎて自宅に引き入れて共に暮らしていた女から借りて読んだものだ。
この小説に出てくる箕輪萃を私はずっと憶えている。

『青鬼の褌を洗う女』を読んだときに、サチ子はに似ている、と思った。
小説は無限に空想が広がるから登場人物のイメージは読むひとによって全員、異なるだろう。
私にとって、サチ子はファム・ファタールであり、あれからずっと探していただと思った。残念ながら現実ではなかったけれど。

もう一度、『N・P』を読んでみようか。
それからじっくり映画も観てみたい。
私、すっかりおとなになってしまったけど大丈夫かな。
感性が取り戻せるといいな、と思っている。

楽しみが増えた。


覗いてくれたあなた、ありがとう。

不定期更新します。
質問にはお答えしかねます。

また私の12ハウスに遊びにきてくださいね。










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