【表現の自由さとは】 コパチンスカヤのリゲティを浴びたら、傷ついている場合かと喝が入ったこと
絵画が浴びるものであるように、クラシック音楽も浴びるものだと思う。
先日のコンサートは、豪雨だった。いっそスカッとする豪雨っぷりだった。
リゲティの秘密-生誕100年記念-と題したコンサートは、日本初演の
「虹」から始まった。雨が降る前に虹が出たことになる。少人数構成で奏でられたこの曲の虹は、石畳の少し古い街並みの頭上にかかっていた。
お次は、リゲティのヴァイオリン協奏曲。豪雨の始まりだった。
やはり、セピア色の中欧の街並みが頭に浮かんだ。行ったことはないけれど、ブタペストのイメージだ。行ったことのある場所で一番近いのは、プラハ。
その街並みが、少しずつ歪んでいった。予定調和を一刀両断する、もぞもぞとした心象風景のようなものへと変わっていった。現実と魔法の世界を行き来するハリポタ的な雰囲気に、緊迫感をみなぎらせた感じ。
呼吸がずっと浅かったように思う。気持ちを張り詰めていないと、何かに引きずり込まれて帰って来れないような気持ちになった。
前衛音楽は、私的には景色が思い浮かばないものが多いのだが、リゲティは違った。セピア色は変わらなかったけれど、ずっと、ちゃんと、景色や風景が浮かび上がっては消えていった。
それを貫くパトリツィア・コパチンスカヤのヴァイオリンは、雷神だった。裸足でトコトコと舞台中央に歩いてきたと思っていたら、不思議な揺らぎの調律をし始めた。あれ?この音で?と思っていたら、楽曲が始まっていた。
そこからずっと、彼女は自由だった。
不思議極まりないオーケストラ編成(木琴4台、ティンパニー2揃い、ドラ、小ドラ、弦楽器は通常の1/3、でもハープとオルガンがいる!)の中で、彼女の音は、圧を伴って、私に降り注いだ。
インターミッションを挟んだ後の、大人数編成に合唱まで加えたバルトーク:《中国の不思議な役人》op.19 Sz.73(全曲)とは真逆の編成だ。それなのに、バルトークが全く思い出せない。それくらいの圧力だった。
そして、最後に事件は起きた。
リゲティ:マカーブルの秘密。
新聞で作ったリボンやら、スーパーのお肉パックを入れるヘロヘロなビニール袋を膨らませたものを体中に付け、顔はピエロのような白塗りで、コパチンスカヤは再登場した。
指揮者はまだいない。
あちこちに新聞のリボンをお裾分けしたり、挨拶したりしながら、唐突に彼女は歌い始めた。
くりかえすが、ヴァイオリニストが、歌い始めた。
もちろん、バイオリンも弾く。
ウロウロ歩き回りながら、彼女は周りにちょっかいを出しながらモルドバ語で歌い、ヴァイオリンを奏で続けた。
指揮者が登場してからも、この摩訶不思議な光景は変わらない。
丸められた新聞紙がオーケストラの団員から投げられたり、メンバーがあちこちで立ったり座ったりし、しまいには、指揮者が奇声をあげる。「誰か代わって!」と観客に向かって懇願する。
でも音楽は続く。やってることは奇天烈なのに、演奏は超絶技巧。意味が分からない。
そして豪雨はいきなり止んだ。
頭上には、大きな虹がかかっていた。冒頭の楽曲を脳が勝手に繋げてくれた。
ずぶ濡れのまま、笑いが止まらなかった。小さい頃、ざぶざぶの雨の中を走るのが好きだったことを思い出した。
パトリツィア・コパチンスカヤは、何かを壊しながら、同時に何かを作っていた。子どもが、レゴや積み木で何かを作った後、ががーーっと一気に壊していくようなイメージだ。それはリゲティの楽曲が持つイメージなのか、彼女自身の現れなのかはよく分からない。
でも、その様はとてもエネルギッシュで、楽しくて、圧倒的な創造性に溢れていた。表現とはなんて自由なんだろうと再認識させてくれた。
先日のKPTで、傷のことを書いた。その傷は、表現者としての悩みからくる傷だったのだけれど、そんな傷に気を取られている場合ではないと気付かされた。豪雨に横っ面を張り倒された。爆笑しながら。
私が楽しんで全力で言葉を、物語を紡ぐ。それはきっと、伝わる。
やれることは、まだまだある。
楽しかった。
コパチンスカヤのリゲティ、また会いたい。
明日も良い日に。
言葉は言霊!あなたのサポートのおかげで、明日もコトバを紡いでいけます!明日も良い日に。どうぞよしなに。