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【救いとは】 舞台 『ピローマン』
読んだ人がそれぞれに考えればいい
冒頭のこの言葉に従い、衝撃のラストから遡って色々考えた。何しろ額面通りに捉えるな、と劇作家自ら、しかも劇中で釘を刺しにきているのだ。受けて立たないでどうするのだ。
とはいえ、怒涛のように交わされていくセリフの乱流を言葉通りに受け止めるだけでも内臓がぐちゃぐちゃになりそうなのに、それを更に考えるのは、未だ血がダラダラと流れ続けている死体の腑分け作業に匹敵する。
(カトゥリアン)俺には物語しかないんだ
(ミハイル)…俺もいるよ。
ポスターに書いてある「僕たちは大丈夫だ」は、カトゥリアンがミハイルに言った言葉だ。でも、実際には、カトゥリアンは兄ミハイルのことなんかより、自分の物語の方を大切に思っている。物語全般ではない。自分の物語を。
両親から身体的な虐待を受けたのは兄だけれど、精神的な虐待を受けていたのは弟も同じ。それでも自分には物語を書くという才能があった。それを両親にも認められていた。パパとママは、自分の文才を喜んでくてれていた。
でも、虐待を受けていた、知能障害を持つ兄が書いた物語は、自分の物語よりもずっとずっと上手く書けていた。そんなこと、あってはならないことだ。
だから、その物語をカトゥリアンは燃やした。
この燃やしてしまった物語こそ、「緑の子豚」だったのではないか。だって、この物語だけは子供が死なないのだ。
だから、(自分が書いたことにした)この物語を読んで欲しいと兄にせがまれて、弟カトゥリアンは渋る。だって兄は忘れているかも知れないけれど、元々兄の物語なのだから。
いや、もしかしたら無意識で兄は覚えていて、それを思い知らせるように「一番好きなお話」とわざわざ言ってくる。その度に、自分の作品ではないことを改めて突きつけられる。そんな風にカトゥリアンは感じたのかも知れない。誰にも言えないけれど。
結局、「緑の子豚」も含めて、カトゥリアンの物語は燃やされずに済む。彼のエゴは守られる。例え、誰にも読まれることが無いとしても。
洗い流すことも覆い隠すことも、もうできないのです
「警察犬」アリエルも父を殺していたし、トゥポルスキ刑事も子供を亡くしていた。2人の子供(3人じゃない!)を死なせてしまったミハイルも、3人殺してしまったカトゥリアンの罪も、覆い隠すことはできないし、「自分がやられたからって、他人にやっていいことにはならない」。
「今風の救いのない終わり方」で終わるはずだった物語が、「10まで数えてから撃つ」という約束を刑事が違えたが故に、警察犬は心変わりし、物語は残ることになる。
それが「救いのない終わり方を台無しにしてしまった。でも、こっちの方が良かった気がする」とラストに締め括られる。そんな終わり方をした物語は、私の心に未消化なままで引っかかっている。一晩経った今でも。その意味で、この物語は潰えていない。
向かい合わせの席に座っていた人たちの表情も、茫然としているように見えた。
「物語の語り手の唯一の義務は、物語を語ること」の通りだ。
最後の流血が、脳裏にこびりついている。
この物語の中で、相手のことを理解しようとした人が果たしていたのだろうか。相手の言葉を理解しようとした人が。
私は、相手のことを理解しようとしたことなどあるのだろうか。
真実とは、如何様にでも作り出されてしまうのか。
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まだよく分からない。もう少し考えよう。
明日も良い日に。
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