【愛とは】 舞台 「アンナ・カレーニナ」
劇場に入った瞬間から、美しさに息を呑んだ。
今よりも少し前の、欧米の貴族の御子息の部屋。おもちゃのピアノ、子どもが乗ることのできる、揺れる大きな木馬。幾何学模様のタイル。小ぶりだけれど、立派な作りのベッド。
でも、この子ども部屋で、何組もの大人たちが諍いを繰り返す。諍いのネタは、「子どもを産んでだらしなくなった身体に触れてくれなくなった夫の浮気」に始まり、主人公アンナの不倫の恋と、世間に対する建前から離婚に一切応じないその夫、アレクセイの間で何度も繰り返される言い争い。
どのシーンでも、何の言葉も発することのできない子どもたちの姿が、舞台手前にある。電車のおもちゃで遊び続ける姿だけが、無言の主張になる。
そして、カップルたちの諍いを、舞台奥で聞いている貴族や村の人々。貴族社会でも、村でも、人の噂はあっという間に広がっていく。彼らは好き勝手なことをお互いに言い合い、ゴシップを楽しむ。彼らの視線や、時に上げられる奇声の中で、アンナと不倫相手のアレクセイの間の溝は、どんどん深まっていく。
愛さえあればいい、なんて言葉もよく聞くけれど、その愛が信じられなくなった時、相手がどんなに心から「愛している」と言っても、それは一層、不信感を募らせるきっかけになる。
「そんなことない」が、「そんなことなくない」になり、「そんなことなくないことない」と返されて、「そんなことなくないことないことなんてない」としか返事ができなくなり、お互いがお互いに疲弊していく。
そんな様が浮き彫りになっていた。
そんな悲劇へと突っ走るアンナと対照的に描かれていく、若いリョーヴィンとキティの幸せの形。平凡かも知れないけれど、これもまた幸せの形なのだ。彼らも喧嘩をするけれど、「私たち、なんで怒鳴り合ってるの?」とふと我に返って笑ってしまう。
人間の喧嘩って、はたから見ればなんて滑稽なんだろう。本人は至極真面目に諍っているのだけれど。
有名すぎる原作は未読なのだけれど、イメージしていたものとは違った。アンナの姿を見て、心は痛んだけれど、嫌いにはなれなかった。男尊女卑がまだ普通に存在していた社会の中で、愛を愛のままで身体で体験した人のように感じた。
宮沢りえさん、すごかった…
って、役者さんは全員すごかった… 小日向さんも最高だった…
コロナ禍で全公演キャンセルになった時、もう再演は難しいんじゃないかと思っていた。見られて、良かった。
明日から、大阪で開ける。その前に、記憶が薄れる前に、備忘録。
明日も良い日に。