【許しとは】 演劇集団円 『コウセイネン』
人が人に憎しみを抱くのには、きっと理由がある。嫌なことをされたから。妬ましいから。羨ましいから。自分が不幸せなのに、こいつだけ幸せそうだから。
その根底にあるのは「寂しさ」ではないだろうか。消化されなかった寂しさが、ヘドロのように心の奥底に溜まり、それがある日、噴火してしまう。それが、憎しみだ。
家族を失った遺族の桐本は、加害者のことを許せないと言う。でも、そう言っている桐本も、辛そうだった。相手を許せないと思う気持ちと同じくらいの強さで、自分を許せていなさそうだった。
加害者を許してしまったら、自分を許すことになってしまうから。
家族を失ってしまった自分を許してしまったら、家族のことを大切に思っていないことになってしまう。或いは、事故の日、自分の行動が少しでも違っていたら、家族は事故に巻き込まれなかったと思っているのかも知れない。だから、自分を責めている、ように思えた。
「許せない」が「許したくない」ならば、その「許したくない」相手は、本当は加害者ではなく、自分なのではないだろうか。
許してしまうことが、恐怖になっていたりはしないだろうか。
憎しみが疲れるのは、両刃だからではないだろうか。
自分の罪を、好きな人に話すことほど怖いことはきっとない。きっとまた見捨てられる。きっとまた1人になってしまう。そんな思いが自分を阻む。それならぬるま湯の愛想笑いでいい、それならばいっそ傷つかない1人の方がいい。
それでも、その一歩を踏み出していける人は、きっと本当に強い人なのだと思う。
ある日家を出ていってしまった父親を「許せない」と言っていた娘が、パパが雨のバス停に迎えにきてくれなくなったことが「寂しかった」のだと気づく。その寂しさが、モヤモヤとした愛憎入り混じった気持ちになっていたのだと。
そして「寂しかった」と言えたことで、破綻しかけていた家族の中で、何かが一つ動き出したように見えた。
私は今、何を恐れているのだろう。何を「寂しい」と感じているのだろう。
私の中に「寂しさ」や「恐れ」があるからこそ、これだけビビッドに心が「寂しさ」に反応したはずだ。
そして、書いていてふと思った。「見捨てられること」を私はきっと恐れている。
私だって、怒りに任せて、人を傷つけて、裏切ってしまうかも知れないのだ。
それでも、私を守ってくれる人は、いるのだろうか。
少しずつ少しずつ、強くなっていけたらいい。
怖がっていてもいい。すぐに勇気が出せなくてもいい。でもせめて、怖がっている自分に気づけるように。その自分を許せるように。
ステージングが素敵だった。暗転の時の蓄光テープが、星空のようだった。星はただただ美しい。
明日も良い日に。