【無感情の感情表現とは】 木ノ下歌舞伎 「桜姫東文章」
感情が伝わるということと、リアルな感情表現とは、必ずしもイコールではない。
現実でも確かにそうだ。人は、とてつもなく悲しい時、無感情になる。少なくとも、私はそうだ。
また、人は、途方もない理不尽さに直面した時、すぐに怒ったり泣いたり攻撃したりできるわけでもない。その理不尽さに、ただ呆然としてしまうこともあるだろう。
そして、その呆然としている様子は、無感情に見えたり、理不尽を受け入れたりしているように見えかねない。
上演中、そんなことをずっと思っていた。
「桜姫東文章」の演目自体、初観劇だったのだが、びっくりするくらい様々な理不尽が横行していた。確かにこの演目に限らず、歌舞伎の演目には少なからず、理不尽は描かれている。お家の為に命を差し出す娘や息子、濡れ衣を着せられて社会のどん底まで落ちぶれる人、相手の恋心を逆手にとって堂々と利用し、裏切る人、弱い立場の人の弱みにつけ込んで、身体を要求する人。
それら全てが全部盛りで展開されるのだけれど、理不尽をされる人も、したほうも、淡々とセリフを発する。身体も、ニュートラルなままで。
身体は、むしろ感情をデフォルメする為に利用される。或いは、「さあ、さあ、さあ」とお互いに迫り続けて見せ場を作ったり、見栄を切ったりするような、歌舞伎の「型」を見せる時に使われる。
それ以外は、無感情の棒読みセリフで物語は進む。だからこそ、逆に感情が伝わったり、おかしみのようなものがこちらに飛んでくる。
終始流れている電子音楽の無表情さも、無感情の相乗効果となっていた。無感情は、無関心とは全くの別物だと改めて気付かされた。
演者全員、出ずっぱり。
自分が「登場しない」場合は、舞台の端っこでその場面を見ている「観客」になる。そして、「たっぷりと!」やら「いなげや!」やらと、歌舞伎でお決まりの声がけをしていく。その声がけの中には、「ポメラシアン!」だの「ダルメシアン!」だのも混じる(ポメラシアン!が似合いすぎてて最の高)。
衣装も美術も現代のものなのは、今なおこういう理不尽は形を変えて存在する、ということの現れのように感じた。呆気なく妻が女郎屋に売られることは無いかも知れないけれど、それに類似することは今だってある。
後半、成河さんの2役が目まぐるしくスイッチするところがあるのだけれど、そこがそこはかとなく凄かった。身体ニュートラルなのに、声色もドラマチックに変えたわけではないのに、2人の人がいた。
石橋静河さんのラストの、姫と女郎との混じり方も凄かった。人には色々な顔が、何の不都合もなく、何の違和感もなく混じり合っているものなのだ。
初木下歌舞伎。すごく良かった。
明日も良い日に。
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