【意味からの解放とは】 川村結花さんのライブで感じたこと
こんな歌詞で始まった、川村結花さんの今年最初で最後のライブ。
ピアノが1台、歌い手が1人。満席の会場。でも、1:nの関係ではなく、みんながそれぞれの思いを抱きながらも、それぞれの感情が共有された場でありました。
3年ぶりの川村さんのピアノは、少し緊張しているようにも思えたけれど、丁寧に、我々と繋がるための糸を紡いでいるようでした。せっかくみんな近くにおんねんから、お話しようやあ、ありがとなあ、みたいな行間の響きが、たくさん詰まった音でした。
2曲目の、ピアノ弾き語りversionの「あと1つ」、久しぶりに聞いたけれど、やっぱり好き。
その後も、楽曲自体の演奏が久しぶりだった(気がする)「エチュード」で泣きそうになり、「あなたを知らないままで良かった」で堪えきれずに少しだけポロリ。
コロナもそう。他もそう。みんな、日々色んなことに直面し、時には光が見えないことに絶望し、心を少しずつ削られたり摩耗させられたりして、生きている。もちろん、それと同じくらい、希望を見出したり、癒されたりもする。
言葉は、言葉になった瞬間、イミから逃れられなくなってしまうけれど、音楽は、本質的にイミから解放されている。これは、谷川俊太郎さんからの、受け売り。
ということは、「歌」には、イミからの解放と、イミの内包の両方が備わっている。
だから響くのかも知れない。
言葉からの解放と言葉による束縛の両方を求めてしまう身として。または、言葉からの解放と、言葉による開放の両方を信じてしまう身として。
定期的にクラシックに回帰してしまうのも、そう言うことかも知れない。どうにかして、言葉を始めとする「意味ある存在」から逃れたい思いが背後にあるのかも知れない。
まあ、こんな風にゴニョゴニョ考えている時点で、すでに意味にがんじがらめになってるのだけれど。
明日も良い日に。