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【読書記録】デリダ 脱構築と正義【高橋哲哉】

読書の所感メモです。「未来の構想」、「私の正体」、「子どもの将来」を読書テーマとしています。


高橋哲哉「デリダ 脱構築と正義 」(講談社学術文庫)

なぜ読んだか

これまでニーチェやハイデガーの思想を軸に「私の正体」をテーマとして人生について問い、「自己とは他者である」と考察しました。
この考察を、社会についての問い、「未来の構想」に繋げたい。

他人との関係、社会や正義といった概念をどのように問うか。この点について、現代思想に先駆的考察や示唆があるのではないかと目論んでいます。特にデリダの「脱構築」は、土台のような思考法に当たるのではないかと想像しました。

何を学んだか

脱構築とは、二項対立を保留する思考法と説明されます。
本書は、読みづらい文章でしたが、その内容、目的・動機、実践例など、上記の簡潔な説明では漏れてしまった実が豊富にありました。

また、デリダの思想は「他者」への責任という点で一貫しているのではないかと思いました。

個人的にもテーマ候補がアイデアとして浮かんでいます。
例えば、自己利益偏重型の個人主義を、他律的決定を促すシステムに脱構築できないかと。

以下、本書を引用しながらまとめます。

他者を見つけ、肯定する

脱構築とは、あるテキストから排除され、隠ぺいされ又は貶められた「他者」を発見し、しかしそのテキストの主張が「他者」を条件としていることを暴露することで、「他者」を肯定する批判の手法であると理解しました。

なお、デリダや本書、そして私のいう「他者」とは単なる他人ではなく、レヴィナスのいう「他者」、すなわち理解できない他人的なものであると思われます。

形而上学者の夢は、階層秩序的二項対立の優位に立つ項(A)が純粋に現前し、劣位にある項(B)が無に等しくなる場面を実現することにある。そのために形而上学者は、二項が決定不可能な仕方で混交し流動している現実から、(B)を排除し、(B)が(A)に対して端的に外部にあるような状態を作り出そうとする。(A)の内部に(B)的な要素がいっさいなく、(A)に対して(B)がまったくの外部にあるときこそ、(A)が純粋に現前するといえるからだ。このことは、形而上学的二項対立のどんな二項についてもいえる。

p.89

もし(B)が(A)に対して徹底して外的であるなら、(中略)どうして(A)は、(B)を外部にとどめておくことができないのか?(中略)デリダはこう考える。内部/外部の階層秩序的二項対立は、けっして完全には確立しえないということ、内部/外部の境界線は究極的には決定不可能であり、可変的、流動的、不安定なものであるということ、外部は内部の内部であり、内部の内部から外部を外部に追放することは不可能であるということ、を意味すると。

p.90-91

脱構築は、形而上学の主要な諸概念の階層秩序的二項対立を解体しようとする。プラトン主義的「決定」の根拠を疑問に付し、それが、あるラディカルな「決定不可能性」の暴力的抹消──パルマコン゠パルマコスの排除──のうえにのみ成り立っていることを明らかにする。

p.121

脱構築的言説は、こうした広義の形而上学的思考を支配している諸概念の階層秩序的二項対立を解体し、現実の力関係を変形すべく介入する。パロール/エクリチュールのケースが典型的だが、通常は、劣位におかれたもの(エクリチュール)が何らかの形で優位におかれたもの(パロール)の可能性の条件にかかわっていることを示し、両者の境界線が厳密には決定不可能であることを暴露することによって、既成の価値序列とは別の関係、別の〈他者との関係〉の可能性を開こうとするのである。その場合、既成の価値序列がただ逆転されただけで、二項の境界線が問いなおされず、かつて劣位にあった項が純粋現前してかつて優位にあった項を支配するなら、それは逆転された形而上学、もう一つの形而上学にすぎない。

p.322(用語集)

この手法は読書法でもあります。

形而上学のテクストは、デリダにとって、形而上学の「他者」の痕跡である。「他者」の抹消の痕跡なのだ。極度に注意深い読みによって、抹消された「他者」の痕跡を読み解くこと。

p.60

私も、この記録をつけながらも既に他の本を読んでいますが、本書の前後ではテキストの読み方が変わったような自覚があります。
文面の意味だけでなく、裏の意図(筆者の意図とは限らない)とか、どうしてその言葉が選ばれたのかとか。同じ文章から読み取れる情報が増えたと思います。

こうして、本書ではデリダ自身による脱構築的読解が、差延、反復可能性、散種、ウィウィといったキーワードに沿いながら披露されます。

正義を目指して~言語の暴力の最小化~

脱構築は「決定不可能性」の抹消という暴力への批判ですが、その根源は、「他者」からの呼びかけに対して、いかにして適切に、すなわち最小の暴力として選ばれた言語をもって、応答するかということにあるようです。

ある別の暴力、ある別のロゴス、自分が言説として暴力的であることを自覚した言説、「最小の暴力として選びとられた」言語をもって戦わなければならない。「言説が根源的に暴力的なら、言説はみずからに暴力を加えるほかはなく、自己を否定することによって自己を確立するほかはない」。それは「暴力に対抗する暴力」であり、言語のうちなる戦いとは、こうして実行される形而上学的言説と脱構築的言説との戦いと考えられる。

pp.142-143

その前提には、言語は根源的・潜在的に暴力であるという理解があります。
もちろんここでいう暴力とは有形力の行使ではありません。例えば名づけは、その名が言語である=反復可能である=他人にも同じ名前を付けることができるため、その人の固有性を表現することができず、固有性を失わせるという意味において暴力であるとされます。

より抽象化すれば、言語による描写は、その言語の制約性のため完全な描写が不可能であり、何かしらの情報(優先順位というヒエラルキーに基づいて劣後させたもの)を排除・隠ぺいしてしまうということでしょう。

しかし、だからといって沈黙してしまうよりはマシだという判断も前提になります。

「有限の沈黙」が暴力の境位であり、最悪の暴力に陥りかねないのは、それがいっさいの発話、いっさいのコミュニケーションを拒否した人間関係だからだ。脱構築的言説の暴力は、脱構築的であるかぎりロゴス中心主義の暴力に抵抗し、言説であるかぎり、問答無用のテロリズムの暴力に抵抗する。それは二重の意味で「暴力に抵抗する暴力」なのだ。「言説は、純粋無ないし純粋無意味に抗して暴力的に採用され、哲学にあってはニヒリズムに抗して採用される」ともデリダは言っている。

p.143

こうして脱構築とは、排除された「他者」を見つけて肯定しつつ、しかし「他者」を排除しないことが不可能であることを知りながら別の決定を続ける営みであるといえるでしょう。決定不可能であると知りながら決定する。その取り組みは正義を目指すということであり、また際限がないということが示唆されています。

ある別の暴力、ある別のロゴス、自分が言説として暴力的であることを自覚した言説、「最小の暴力として選びとられた」言語をもって戦わなければならない。「言説が根源的に暴力的なら、言説はみずからに暴力を加えるほかはなく、自己を否定することによって自己を確立するほかはない」。それは「暴力に対抗する暴力」であり、言語のうちなる戦いとは、こうして実行される形而上学的言説と脱構築的言説との戦いと考えられる。

pp.142-143

言語はみずからのうちに戦いを認め、これを実践することによって際限なく正義のほうへ向かっていくほかはない。それは暴力に対抗する暴力である。

p.185

こうした言語は、正義を直接的にとりあつかう法・権利の分野で特に顕著です。したがって、デリダはもし脱構築にホームポジションのようなものがあるとすればロースクールだとさえ言ったようです。

正義は、法創設の暴力が排除し、抑圧し、沈黙させた特異な他者たちへの関係である。あらゆる法=権利(droit)の脱構築は、法=権利を創設し維持する力が忘却させた特異な他者たちを想起する、脱構築不可能な正義の名において生ずる。法=権利は正義のために、正義に向かって脱構築されるのである。

p.207

たしかに正義は、なんらかの法=権利の形をとって十全に現前することはけっしてない。けれども、法=権利の絶滅や廃棄によって正義が現前することもけっしてない。したがって、正義は法=権利をとおして、法=権利のたえざる脱構築のプロセスによってしか追求されえないのである。

p.208

司法の象徴といえば、女神はテミス(ユースティティア)。日本の最高裁をはじめ、世界中の司法機関でその像が飾られていますが、その右手には剣を、左手には天秤を、そして多くの場合、目隠しをしています。

この目隠しは、現在では「法の下の平等」を含意するとされていますが、脱構築は現実を見よと、その目隠しを取り除くことだと思いました。

汝、右手に持つ剣を見よ。
汝、左手に持つ秤に載せなかったものを見よ。

公平のために暴力的に排除された「他者」を見よ。目隠しなど無責任だ。そういうメッセージなのだと受け取りました。

主体から他律へ

特に印象的だったのは、脱構築的な決定、すなわち決定不可能なものの決定は、主体的決定ではないと指摘です。

古典的な「主体」概念は、つねに〈自己への現前〉ないし〈自己との同一性〉を最終根拠として構成されている。すなわちそれは、自己に先立つ他者との関係と、それに由来する決定不可能なものとを、みずからのうちから排除することによって構成される内部性そのものである。(中略)主体には決定という出来事は起こらない。なぜなら、主体は決定不可能なものを排除するから。

p.247

主体とは、他者との関係に開かれようとするなら、ぜひとも縁を切らねばならない「構成された正常性=規範性」そのものである。決定が主体的決定であるなら、それはこのすでに構成された正常性=規範性の枠内でのものになるだろうし、主体のうちにすでにある基準、原則、「可能なもの」の適用、その展開にすぎないものになるだろう。(中略)
この意味で、決定不可能なものの経験とは、主体が他者に先立たれる経験、他者に呼び出され、召喚され、要求されるがままになる経験、要するに、主体が主体でなくなる経験としてしかありえない。

p.248

そもそもデリダの考え方からすれば、自己とは他者との関係でしか成り立ちません。

およそあらゆる同一者は、他者との差異においてのみ、またそれ自身の反復においてのみ同一なものとして構成されるのであり、この差異と反復、すなわち差延の運動に権利上先立つ同一者は存在しない。(中略)要するに、他者への関係を抹消した<自己自身>なるものはけっして存在しえない。

p.323(用語集)

また、死者を葬ることの考察を見ると、他者を内面化しない完全なる主体というものが表れるとき、それは「他者」との関係の全面的拒絶であると思われます。
そして「他者」の全面拒絶を、デリダは「絶対悪」と表現しています。

私は内面化や体内化に失敗するかぎりでしか、死者の他社性を尊重することができない。死者を死者に葬らせる、つまりいかなる内面化もないなら、死者は完全に忘却されるし、完全な内面化しかないなら、死者は死者としてはやはり忘却される。

p.265

死者に死者を葬らせるとは、(中略)他者との関係の全面的拒絶につながっていかざるをえないのである。

p.267

デリダが求める決定不可能な決定がいかに不安なものかわかります。
他者の呼びかけに応じ、既存の「構成された正常性=規範性」を破壊し、しかし決定しないことは許されず、暴力の最小化を目指し、際限なく決定をしなければならないのです。

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