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【読書記録】佐藤義之「レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまで 」(講談社学術文庫)

読書の所感メモです。「未来の構想」、「私の正体」、「子どもの将来」を読書テーマとしています。


佐藤義之「レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまで 」(講談社学術文庫)

なぜ読んだか

いくつかの哲学入門書に紹介されたレヴィナスの「他者」の説明(理解不能な他人的なもの)を受け、自己とは「他者」であるという私の経験的確信から思想を構築していこうと試みています。

そうであればレヴィナスについてはしっかりと研究しなければと思い、本書を手に取りました。

何を学んだか

緻密な論証を1歩1歩丁寧に進める、非常にわかりやすい本でした。

レヴィナスの2つの主著である『全体性と無限』及び『存在の彼方へ』について、その議論をつぶさに紹介しながら、著者は矛盾や弱点を容赦なく指摘し、しかし批判に終わらず、最後には現代日本にとっても意義があるように継承を試みるという、終始切れ味抜群の本でした。

レヴィナスが2つの主著で試みたこと、今日的意義や現代思想への影響について理解できただけでなく、哲学の議論とはこういう風に進めるのだという示唆にもなり、哲学を専攻していない私には学びの多い読書となりました。

本書はまず、レヴィナスが提示する「顔」について確認しています。

  • 顔は、他に何の基礎もない倫理の源泉であること。

  • 顔は、無限の責任を要求すること(例:身代わり)。

  • 顔について自他非対称であること(私の顔を他者も感じるべきとはならない。)。

  • この概念は客観的根拠をもって証示できないこと。

現前する「他者」に対して、身代わりの死も含む無限の責任を負うという倫理。レヴィナスはこのような倫理を絶対的なものとしようとします。

『全体性と無限』の失敗

第一の主著『全体性と無限』は、前述のような顔の倫理を「存在」よりも先の根源とする新たな哲学体系の構築を企み、『他者』を同化しようとするこれまでの哲学を批判するものであったようです。

本書は、この企みの成否が「<学問は倫理を前提する>という主張にかかっている」と指摘します。
そして、確かに学問は倫理を前提とすることを確認しますが、その倫理が顔の倫理であるとは論証できないといいます。

結局、学の前提する倫理は顔の倫理である必要はない。学の前提として顔が働いていることを論証しようとする試みは失敗しているのである。

p.120

また、顔の倫理を存在論よりも優先する「第一哲学」に据えるため、『全体性と無限』は形状学的規定にこだわりますが、これが現象学的道徳規定を十分理論にくみ上げていない(私の理解では、観察と理論にズレが残っているという意味)と指摘します。

しかし、レヴィナスも、当時レヴィナスに批判を加えた哲学者たちも、この点の議論は行わなかったといいいます。
むしろ、デリダの批判を受けて(あるいはレヴィナス自身も不十分さを感じていて)、第二の主著『存在の彼方へ』は形而上学的枠組みを先鋭化させることになったようです。

『存在の彼方へ』の失敗

デリダの批判は、レヴィナスが顔の倫理という語れないことを語ろうとしているにもかかわらず、その自己矛盾に無頓着であるということです。

ギリシャ人の(精神的)子孫として哲学するわれわれは、言語という手段に頼らざるをえない。他者の言語化の暴力性を告発する意図においてさえ、どうして他者については言語化が暴力になるのかを言語で示さざるをえず、そのため他者というものはどういうものかを語ることから始めざるをえない。つまり、暴力を告発するという自己の出発点を忘れて他者に言語化の暴力をふるうという自己忘却によってしか(しかも告発される言語に頼ってしか)、言語の暴力性の告発もできない。だがデリダはレヴィナスの試みを自己矛盾だという形式的判定によって切り捨ててしまうのではなく、自己矛盾を犯しつつも語ることを薦めているのである。

p.130

この批判を受けて、『存在の彼方へ』では言語に注意が注がれます。
名詞ではなく副詞を使用したり、「誇張」のような神学のテクニックを使用したりする。

体系を放棄し、私から「他者」への能動性を徹底的に排し、「感受性」や「強迫」といった様々な概念で「存在の他」を言い表そうとするのです。

しかし、これでは神を説明しようとしているのと変わりません。

この点はまた、「存在の他」を追い求めて強迫まで至ったレヴィナスの研究のわれわれにとっての意義にもかかわってくる。「存在の他」を求めることが神を追い求める彼にとって意義があることは明瞭であろう。しかしそういう意図を共有しないわれわれにとって、「存在の他」の存立を示す──証明でない形で示す──ことに成功したとしても、そのこと自体では非常に限定された意義しかもたない。「存在の他」を暴く強迫が仮に倫理的なものだと言えるとしても、それが倫理一般にとって大きな意義をもつというようなことがないかぎり、倫理学にとっての意義は乏しい。

p.191

もし、「存在の他」という自他非対称な倫理が、社会規範の基盤となる我々の日常的な普遍的倫理、すなわち自他対称な倫理の基礎になっているというのであれば、レヴィナスの試みは神を信じない我々にも倫理学的意義があると言えるでしょう。

しかし、絶対的な受動性にこだわる限り、それは達成できないと本書は指摘します。

顔の要求への従属はレヴィナスによれば純粋受動である。つまり、彼は純粋受動的に私が動かされるなかで、正義へと至るというわけである。もちろん正義は他者を比較・認識し、私の判断で誰に尽くすかを決めるというような能動性を不可欠の契機とする。しかし、その正義を採用するよう私が動かされたのは、複数の顔からの要求に純粋受動的に従わされることによるのである。しかしながら今見たところでは、彼の目論見に反して、顔だけからだと現実の顔(複数)を越えられず、「ひと一般」には至れない。ではそこに至るために何が欠けているのか。それは私が現実の顔の要求から(いくぶんか)自由になり、自由に振る舞える能動性である。

p.211

再構築

本書は、神を信じない我々にも意義があるといえるよう、他者観の再構築を試みます。すなわち、絶対的受動性を廃棄しながら、同化されない他性を確保できるかという探究です。

こうして本書は、先鋭化される前の『全体性と無限』の他者観に立ち戻り、ケア倫理と比較しながら『全体性と無限』に見られた問題点の克服を試みました。

そして『全体性と無限』に書かれた「教え」やケア倫理の「受容」に、同化しない他性との関係を見出したのです。

結論として、レヴィナスの議論は、神を信じない我々にも次のような意義を残します。

哲学に対する倫理の基盤性の主張は、顔の倫理の基盤性については妥当しないが、倫理の基盤性については妥当し、倫理からの存在論批判については有効であることを確認した。つまり顔は旧来の哲学の体系を破壊しながら、顔からの体系的構築を許さない。そのことでわれわれは──レヴィナスの意図に反して──何ら知的な面での手がかりのないまま、顔の前で選択するという局面に連れ戻されたのである。

p.263

顔の倫理学も同様に、論証できない顔を自らの判断で信じることから始まり、顔を圧殺する論議を批判することが課題である。顔に基づいて積極的な体系を構築できるわけではない。したがって、つねに顔への信念に送り返され、自らの信念において顔の圧殺を告発する作業が倫理学の営みなのである。

p.263

これは、デリダの正義観とも通ずるものがあるように感じます。

決定不可能な決定を、他者への暴力が最小となるよう繰り返し決定しなければならない。顔の圧殺を告発し、他とのかかわりを見直して哲学を再構築し、また顔の圧殺を告発し……
この無限の営みに現代思想を駆り立てるのは、顔の無限責任が根源にあるようです。

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