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邪馬臺国東遷説②鍛冶説


鍛冶将一という人物

鍛冶先生は言葉遊びのプロである。

例えば、スサノオのことを「宇佐の王」であるとしてみたりである。
つまり、スサノオのヤマタノオロチ退治は宇佐勢力による出雲打倒と言うことである。

他にはニニギのことを壱岐の繭支(にき・官職)イキのニキ⇨ニニギだとしている。

他の邪馬臺国の数ある説と違って、壱岐と対馬がメインになってくるところも違う。

今回はこの本の内容を読み解く。

天皇家の血筋は高句麗系?

現代に残る「記紀」は天皇家の万世一系と藤原氏の正統性を示すためのものと言う見解である。

例えば、息長氏。
通常、「オキナガ」と読まれる。しかし、普通に読めば「イキナガ
つまり、壱岐の中臣氏であると言っている。

29代欽明天皇は別名「志岐島」天皇であるが、これも「壱岐・志摩(三重の志摩)」としている。

また、欽明天皇の和風諡号である「天国排開広尊」の意味を
倭人(天津神)を排除し、広開(広開土王など高句麗王族の名称)が支配する」と言う意味だと言っている。

29代欽明天皇は26代で越前・近江のボス継体天皇の子供である。
継体天皇は武烈天皇で途切れた系譜を武烈の妹の婿になることで継承したとされるが、ここで王朝交代しているという説もある。
※一般的には応神天皇の5世孫(ただし系譜不明)

越前は敦賀王国があり、朝鮮半島と直接交易していた点から考えても不思議ではない。
但し、高句麗の使者の来訪数など考えると現実的ではないか
※古来より日本は百済(辰韓)と仲良し
 新羅より北の高句麗は地形的に日本と交易しにくい
 高句麗のヤマトへの使者派遣は欽明31年(570年)である。
 高句麗系政権ならもっと早くきているのでは、、、
 まぁあくまでヤマトへの使者であり、ヤマトをかえさず敦賀王国とやりとりをしていた可能性はある。

邪馬臺国はどこにあった

この本は「初代天皇は誰か?」がメインテーマなので
「邪馬臺国」はどこか?
という点では記載されていない。

だが、出てくる内容的には「宇佐」に比定していると思われる。

根拠は
・隋書倭人伝に「筑紫」の東に「秦王国」があるとの記述
 ※4世紀後半に秦氏の豊国大流入は学会認定
・中津平野なら魏志倭人伝に記述の7万戸が可能
・その東千里に国ありが一致(四国)
・「耶馬溪」というそのまんまの地名

初代天皇は誰だ?

壱岐と対馬の関係性

著者の考える関係性を表にした。

壱岐と対馬の関係性(鍛冶将一)

古来より、壱岐と対馬の人々は中が悪かったらしい。

壱岐勢力が俗にいう「安曇氏
対馬勢力が俗にいう「宗像氏」になると思います。
(本では安曇氏・宗像氏という記述はない。)

壱岐と対馬の形

著者は対馬の島の形は矛(剣)であり、壱岐は円(鏡)であるとしている。
それが3種の神器の草薙剣(熱田)と八咫の鏡(伊勢)に繋がる。

そして壱岐勢力(安曇氏)が伊都国を作った。
対馬勢力(宗像氏)が奴国を作った。

第1次東征(奴国)

AD57年 奴国「後漢」に朝貢

対馬勢力である奴国が先んじて中華に朝貢
それにより「漢倭奴国王」の金印を授かる。
奴国の一歩リード。

奴国はその後、東征(中国の検分等を恐れたと著者は推測)
同盟関係の出雲と一緒にヤマトに東征、支配した。
 ※著者の見解は107年の帥升を漢に送ったあととしている。

奴国は古代朝鮮語で「ナラ」と読む。
そう「奈良」である。

奴国は現地で先住民である長髄彦(三輪族・出雲王)と融合
この奴国王が「ニギハヤヒ」である。

朝鮮半島の政権交代

朝鮮半島には後漢が楽浪郡を設置していた。
57年の奴国の朝貢
107年の奴国・帥升の朝貢も楽浪郡経由である。

しかし、その後朝鮮半島の政権交代が3度起こる。(魏志倭人伝の期間内)

1回目
184年に公孫氏が楽浪郡を奪取

その後公孫氏が204年に帯方郡を設置
その年、倭は帯方郡の麾下に入るとの文書があることから伊都国が「倭(ヤマト)」を名乗り朝貢したことと思われる。

2回目
237年 魏が公孫氏を滅ぼす。
239年 卑弥呼が魏に使いを送る。

3回目 
265年 普が魏から禅譲される。
266年 壱与が普に使いを送る。

そう、政権交代の度に使いを送っているのである。
当時の外交の緊張感がよくわかる。

そして、極めて貧弱な国を装っている。
中華の政権が変わる⇨争乱が起こる⇨中華に助けを求める⇨政権が変わる…

第2次東征(伊都国)

247年 魏の公使・張政が日本に来日
248年 卑弥呼死す
249年 張政、卑弥呼の墓を確認後帰国
※張政は卑弥呼の墓をみている。
 箸墓は260年とされているのでみられない。

そして張政の帰国後、伊都国は卑弥呼の男弟を主領にし、東征へと旅立つ。

ちなみに著者はこの男弟が卑弥呼を暗殺したとしている。
理由は皆既日食を予想できなかったからだろうか
それとも張政が帰り、魏は恐るるに足らずと判断したか。

伊都国東征=ニニギの伝説

冒頭に記載したが、著者はニニギは伊都国のニキ(官職)としている。
つまり、伊都国の首相がニニギなのである

鍛冶説年表

歴史の勝者は?

ヤマトでの伊都国×奴国政権

ヤマトの地で再会した壱岐勢力(ニニギ)と対馬勢力(ニギハヤヒ)
お互いに重婚をすることで権益を守ろうとしたようだ。
このあたりは日本書紀でも有名なところなので割愛。

伊都国と奴国の重婚

卑弥呼の男弟(以下神武)はシャーマン・壱与を大物主に嫁がせる。
しかし、大物主は壱与を暗殺。
リベンジ暗殺で神武が勝ち残った。
歴史の勝者は伊都国であった。

冒頭に書いたスサノオ(宇佐の王)による「ヤマタノオロチ」退治がここに当たるのではないか。

主な墓や神社と埋葬者

平原古墳:卑弥呼の墓
宇佐神宮:卑弥呼を祀る(比売神)

宇佐神宮の祀神(宇佐神宮H P)

宇佐神宮は一般的に応神天皇とされている。
そして比売神も宗像三神と宇佐神宮H Pではなっているが、根拠はない。
著者は比売神と卑弥呼と比定している。

根拠は平原古墳と宇佐神宮が東西一直線のためだ。
ちなみに平原古墳は装飾古墳としても有名。
鏡が39枚割れた形で発見されている。
著者は神武が呪い封じで鏡を割ったと推測している。

大神神社:大国主を祀る
箸墓古墳:壱与の墓
檜原神社:壱与を祀る(平原(ひらばるが訛ってひばらに))
 ※壱与の出身地は平原


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