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「自分なりの桃太郎を書けないでいる話」#白4企画応募

「どんぶらこ」という擬態語が、「桃太郎」以外で使われている例があるだろうかと考えて、そこを切り口に自分なりの「桃太郎」を書こうと考えていた。しかしちょっと検索してみれば、数年前にバズったツイートが紹介されていた。日本語は難しいから覚悟しろよ、といった趣旨で、「日本語には桃が川を流れてくる際に使われる『どんぶらこ』という擬態語がある」という話だった。たくさん「いいね」がついたりRTされたりしていた。XがまだTwitterだった頃のお話である。

「自分なりの桃太郎を書いてください」という企画の内容を読んだ際に、これは自分に向けての企画かと思った。何しろ私は毎晩息子とお風呂に入る際に、自家流「桃太郎」の創作をしているのだ。
「『昔々あるところに』やって!」と息子が言えば、それが始まりの合図である。
「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おばあさんは川へ洗濯に行きました。おじいさんは何をしていましたか?」
「山へサボりに!」
「おじいさんは山で一生懸命仕事をする振りをして、ひたすらサボっていました。『スーパーサボり人ブルー! 身勝手の極意発動!』」などと展開していく。川で洗濯していたおばあさんは巨大な桃がどんぶらこと流れてくるのを指一本で受け止め、そのまま担いで家に帰る。全く仕事をしていないおじいさんをぶちのめしてから、桃を割る。

「すると中から何が出てきましたか?」
「桃!」
「パッカーン! おばあさんはまた桃を割りました。すると中から今度こそ」
「桃!」
「パッカーン! おばあさんはまた桃を割りました。次こそ本当に中からそれはそれはかわいらしい」
「桃!」
「パッカーン! おばあさんはまた桃を割りました。すると中から玉のように美しい」
「桃!」
「パッカーン! おばあさんはまた桃を割りました。今度こそ本当にようやく」
「桃太郎!」
「パッカーン! おばあさんは勢いで桃太郎の額を割ってしまったので、慌てて手当てをしました」

 その後なんやかんやあって成長した桃太郎は犬と猿と雉をスルーして鬼ヶ島でヤムチャを倒す。日によって物語の展開は多少異なるが、そのようなアレンジで昔話を毎晩繰り広げている。だから私にとって、自分なりの「桃太郎」を書くことなど雑作もないこと、と思っていた。実際に書き始めるまでは。

 しかし毎日筋トレしている人が皆ボディビルダーやアスリートではないように、毎日桃太郎をお風呂場で語っているからといって、新たな桃太郎が書けるわけでもなかった。いくつものアイデアが浮かんでは消えていった。消えては復活していった。復活したそれらは禍々しいオーラをまとっていた。まとっていたものを脱がせたらとても人様に見せられないような卑猥な物になってしまったりした。

 そんなこんなで自分なりの桃太郎の創作は一旦休んで、現実の桃太郎問題に向き合うことにした。

 ゴリラが語る。

*

 私は雉の後ろに並んでいました。
 私の後ろには戦闘特化サイボーグが、その後ろには宇宙から飛来した巨大怪獣がいました。
 私たちは桃太郎さんの鬼退治についていくために、ずっと鍛え上げてきたのです。犬や猿や雉などより、ずっと効率的に、残虐に、鬼どもを退治できたのです。
 それなのに桃太郎さんは「きびだんごが切れた」と言って、私たちを鬼退治一行に加えてはくれませんでした。「きびだんごなど要りません。私はあなたの役に立ちたいのです」何度懇願しても、受け入れられることはありませんでした。それに私は見てしまったのです。まだいくつかのきびだんごがあるのに、さりげなく袋を閉じたのを。
 猿のせいですか。同じ類人猿だから、キャラが被るせいですか。それならば桃太郎さんたち人類だって、元々は猿ではありませんか。サイズ感ですか。私のように大きな仲間がいては、鬼と出会った時に、鬼の強さが引き立たないからですか。慣例のせいですか。これまで桃太郎は犬と猿と雉を連れて鬼退治に出た、その慣例のせいですか。

*

 その後もゴリラは、自分を連れていってくれなかった桃太郎への恨み節を吐き続けた。「きびだんごは確かにまだまだあったはず」とゴリラは言い張る。知ったことではない。しかしさすが森の賢人と呼ばれるゴリラだけあって、こうして市役所の桃太郎対策係の私に苦情を言うだけで済んでいる。戦闘特化サイボーグはその後暴れて刑務所に入っているし、巨大怪獣は巨大ヒーローによって退治された。

 延々と繰り返される桃太郎たちと鬼たちとの諍いが、社会に大きな影響を与えないように調整する。それが私たち桃太郎対策係の仕事である。ゴリラの苦情を聞くくらいは楽な部類に入る。日によっては、鬼退治の際に覚えた殺戮の味が忘れられず、凶暴化した桃太郎の討伐に行かされることもある。

 昔々、と息子に語り聞かせる悠長な昔話ではなく、現在進行形の桃太郎一行の後始末に、私たちは付き合っていかなければならない。

 お風呂を出た後、夕飯を食べる際に「子ども用の箸が小さい」と息子が言い出した。手が大きくなって、大人用の箸でも扱えるようになっていた。いつの間にかそんなに大きくなっていたのだ。嬉しいとともに、身体の成長という不可逆な進行は、幼くて可愛い面影を失うということでもあり、寂しさもある。生まれた際はとても小さくてひ弱で、長く生きられないのでは、と心配したほどだったのに。

 息子は妻が拾い上げた。川上から流れてきた桃のうち、一番小さな桃だった。「どんぶらこ」なんて擬態語はとても似合わない大きさだった。赤外線スキャナを装着して桃の中身を確認していた妻は、とても自力では桃から出られないであろう一つを選んで、こっそりと持ち帰ったのだ。私たち夫婦には子どもがいなかった。私たちは息子に「桃太郎」とは名付けなかった。鬼退治に行ってほしくはなかったからだ。しかし成長速度は他の子どもよりずっと早かった。いずれ鬼退治に行きたいと言い出すのかもしれない。私はそうならないようにと、通常の「桃太郎」とは違う展開のお話を毎晩聞かせているのかもしれない。

 きびだんごは作らず、私は肉野菜炒めを作る。味を整える際に息子にも味見をさせた。味の好みが変わっていくのが早いからだ。少し前はもっと甘味を、と言っていたのに、今では「みりんを前より減らして正解だったね。あと少し醤油を」などと言ってくる。とにかくこうするとピーマンもよく食べてくれる。

 桃太郎たちの少年時代は長くはない。もっと遊び、もっと楽しめ、と親心では思ってしまう。しかし遊んで疲れた分よく眠る。眠った分よく育つ。親心が更に少年時代を縮めてしまっているともいえる。私もかつてはそうだったのだろうか。油断していると血に染まった自分の手を思い出す。あの鬼たちは、本当に悪者だったのだろうか。

 私の手を洗い流してくれたのはいつも妻だった。水で流すこともあれば、精神的に洗い流してくれることもあった。拾い上げて来た小さな桃の皮を、妻は私にも剥かせてくれた。中身を傷つけないように、そっと、丁寧に剥いた桃の中には、愛らしい赤ん坊の姿があった。かつて鬼を虐殺した私の手でも、新しい命が生まれる手助けをすることができたのだ。私は赤ん坊を見つめながら、微笑みつつも涙を流していた。その涙はいくらか私に付きまとう血のりを洗い流してくれた。

 また市役所にゴリラがやってきて、長々と桃太郎への愛を語る。変わらない日常。しかし私の身体は、確実に他の人より早く老いてきている。

 夕食の最中、息子が改まった口調で言い出した。
「パパ、ママ、頼みがあるんだ」
 私たち夫婦の容貌は、既におじいさんおばあさんと呼べるようなものになっていたが、息子は変わらずパパママと呼んでくれた。とうとうこの日が来たのか。妻と顔を見合わせる。きびんだごなど作るものか。
「弟か妹が、欲しいんだ」
 そうきたか。

 その晩、息子が眠り込んだ後で妻の布団に潜り込むが、少し抱き合うだけに留める。お互い歳を取った。桃から生まれるのは男児だけではない。妻も私と同じ体質だ。
「山に入ろうか」
「桃の季節じゃないでしょう」
 何もかもをうやむやにしたままで私たちはこれからも生きていく。そんなに長くはない生を。

 翌日のお風呂の際に、息子はもう「『昔々あるところに』やって!」とは言わなくなっていた。代わりに、子どもはどうして生まれるのか、と質問攻めをしてきた。私は様々な曖昧な答えではぐらかし続けた。その日の私は疲れ切ってしまい、自分なりの「桃太郎」は一行も書けなかった。

(了)


白鉛筆さんの桃太郎企画応募作です。複数の原案、挿画イメージ、関連作品などを貼っておこうと思いましたが、大量になってしまったので、後日別記事にて。
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