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「ノートPCを携えて放浪する山頭火」#シロクマ文芸部

 風の色具合を見ながら種田山頭火(1882-1940)は「こういう解釈も出来るのか」と感心した。放浪の旅を続けながら自由律俳句を詠み続ける山頭火は、ノートPCを旅の友とするようになっていた。深い山中でもネットに通じる携帯Wi-Fiも携帯していた。句を詠むたびに、イメージ画像をAIに生成させるためだ。風の色云々というのは

 風の明暗をたどる

種田山頭火の自由律俳句
屏風風に描かれた

 という一句を描かせたものについてであった。風に色がついた画像が生成されたのである。明暗だけでなく色をつける、という発想は句を詠んだ際に山頭火にはなかった。しかし生成されてみれば、自分にはこうした意図もあったのかもしれぬ、とも思われた。自らの中からは自然と湧かない発想が出てくるのも、画像生成の賜物といえた。自分の句のイメージをAIに描かせる。自分の意図とは少し違う絵が出来上がってくる。しかし自分が与えた影響が確かにそこには感じられる。少しずれた自画像ともいえる。そこから自分も影響を受けて、また新しい着想が浮かぶ、といったことを山頭火は繰り返していた。

 たとえば詠み手が自分と同じような姿ではなく、女性になっている場合もあった。動物や虫を登場させた場合、大抵は実物より巨大なものとなった。それらに反発して「現実的ではない」と退けるよりも、「もしかしたら人によって物の見える大きさは違っているのかもしれない。自分は自分の思うような姿で他人には見えていないのかもしれない」と思うことを大事にした。


よびかけられてふりかへつたが落葉林 種田山頭火


ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない 種田山頭火


 残念ながら後年山頭火はうっかりノートPCを水没させてしまい、紙と筆による句作に立ち戻ってしまったため、多くの生成画像は失われてしまった。しかし彼の句は時代を超えて人々に響き続けている。彼の創作の影に生成画像があったことを知る人は、今ではほとんどいなくなってしまった。だからここにこうして書き残しておくことにした。最後に一言付け加えるなら、全てフィクションである、ということだ。

(了)


 今週のシロクマ文芸部「風の色」に参加しました。このお題で思い浮かんだのは、以前種田山頭火の自由律俳句のイメージ画像を生成していたシリーズを作成していた時にできた一枚の絵でした。そこから、ノートPCを持って放浪する山頭火の話を思いつきました。この話はフィクションですが、作中引用した山頭火の自由律俳句は山頭火のものです。

↓ここからは記事に関連したものの宣伝になってしまったのでスペースを開けておきます。





 山頭火の自由律俳句を生成したもののまとめはこちらの記事、kindle出版物になります。


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泥辺五郎
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