「音楽と言葉とアルミニウム」
メンバーシップ様向け記事ですが、今回はメンバー以外の方でも全文読める設定にしてみました。最近のいろいろの総合的な感じの記事でもあるので。作中に出てくるROTH BART BARON「アルミニウム」の動画はこちら。
以下本文。
意図的に音楽を聴かないようにしてみた。これまでは家事の際には必ず音楽を聴いていたし、何かを執筆する際にはボリュームを絞って一曲をリピート再生させていた。それらを止めて、新しいアイデアを思索する時間にあてることにしてみたのだ。次々とアイデアが浮かび、どんどん形にしていった。しかし何か物足りないものがある。自分と言葉の関係に薄い膜ができているような、思い通りの言葉が出てこないような、もっと適切な、もっと文章を輝かせる言葉選びができるはずなのに、その言葉が出てこなくなったような、そんな感覚に襲われるようになった。
クラシックやジャズはあまり好まない。音楽と同時に歌詞に触れ合うことも重要だったようだ。日本語ではなくても、断片的にしか意味を聞き取れない外国語の曲であっても、言葉は言葉である。誰かの口から放たれた言葉が、私の脳に影響を与えていたのではないか。
家族以外と言葉を交わすことがほとんどない生活を送っているせいもあり、他人の声は貴重な刺激源であったようだ。このままでは言葉はどんどん失われていく。簡素化されて記号のようなものになっていく。そのうち
「ああ、うん」
「そう、それで」
「何。そうなの」
「わかった。わかった」
みたいな話しか書けなくなってしまうのではないか。
本気で失語が怖くなってきた私は、以前のように音楽を聴きながら執筆を再開することに決めた。始めに思い浮かんだROTH BART BARON「アルミニウム」をSpotifyで再生させてみる。緑色の宝石のような歌声が脳髄を横に貫くような感覚に襲われた。かつてはこのような刺激を日常としていたのだ、と今さら知る。しばらく休んでいた脳の一部が活性化し、出てこなかった言葉、出しきれなかった言葉、眠っていた言葉があふれ出してくる。これはこれで危険なのだ。歌詞の引用のせいで作品を凍結された過去があるため、ここで引用は控えるが「アルミニウム」の歌詞の端々が私を突き刺してくる。歌詞に触れないように私は歌詞の言葉の周辺をぐるりと歩く。歌詞とは違った言葉を選んで歌の周りをぐるぐるとぐるぐると。言葉でしか表せられない私というものを、どのように表現しようかなどと考え込むことはせず、音に、声に、歌詞に、刺激を受けた言葉を、脳から発された信号をそのまま指で打ち込んでいく。
「さっきの『小林さんちのメイドラゴン』で、小林さんとカンナがただ近所を散歩するだけの話、良かったよな」
小学校登校前の娘との会話だ。集団登校の集合場所に、娘と息子と私は早すぎるくらいに集合して立ち話をする。私は朝食時に観たアニメの話をすることが多い。この日に観た「小林さんちのメイドラゴンシーズンS」の第10話の後半で、小林と幼い少女(中身はドラゴン)のカンナが、ただただ近所を散歩するだけの話が、いたく気に入ったのだ。常々私は「何でもない日常を書いて面白いのができれば最高なのに」と思っている。だからこうして、何かを書いている様子を記してもいる。娘はそんな私の思惑はつゆ知らず「昨日体重測った?」などと聞いてくる。私はもっと、ただ近所を散歩するだけで成立する話の素晴らしさを語りたいのに。
「昨日は測ってない。この間測った時83キロだったから、そんなに変わりないだろう。昔の最大体重は89キロだった。まだそこまでは行ってない」
「そんなのもうほぼ90キロやん」
「パパやばいで」と息子が私の腹をぽんぽんとたたく。
アニメの話をしている間も「アルミニウム」は流れ続ける。今日はこの間雨で中断した小学校の運動会の続きを行う日でもある。参観形式で、徒競走だけを行う。昨日は娘の六年生の100メートル走を観た。本日は息子のいる一年生の番である。運動嫌いな娘はきっとかったるそうに走るものだと思っていたら、意外と真面目にそれなりの速度で走っていた。秋の花粉アレルギーのある娘は、普段はずっとマスクをつけている。走る時は外してと教師に指示されたとかで、ずっと口元を押さえていた。
一人ひときわ背の高い男子生徒が、最後の走者として走り終えた後、すぐに校舎に向かって駆けていった。あれが息子の言っていた「巨人」かと思いながら、一人際立つことの大変さなどを思った。noteで連載している日記「耳鳴り潰し」に彼のことを書いた後、AIで彼のイメージを画像生成してみた。しかしどうも実際見た景色とは印象が異なる。違和感の正体は、絵の中では「大きな子ども」というより「大人が子どもの中に紛れ込んだ」だけに過ぎないように見えてしまっているためだった。
私は一編の何らかの小説を書こうとしていたのに、音楽と言葉の連なりから始まる、何かの物語を創ろうとしていたのに、いつの間にかアニメと子どもたちの話になってしまっている。「アルミニウム」は流れ続けている。布団を畳まなければいけないし、洗い物をしなければいけないし、買い物のメモもまだ途中だ。真四角のメモに記されている私の文字は半分ぐらいしか判読できない。
「パパも漢字書いて」とこの間息子に言われた。息子の漢字ドリル書き取りの文字が、とても丁寧で力強く書かれていたことを誉めた時のことだ。私は息子が書いていたのと同じ漢字を、ささっと紙に記した。全ての文字を息子は赤鉛筆で修正してきた。私の記す文章も、息子に読ませたら全て赤を入れられるかもしれない。
「どうしてこんなことを書いているの」とか「パパは一体何を残したいの」とか問い詰められるかもしれない。私は音楽と言葉について書こうとしていたんだよ、少なくともこの文章では。音楽とぶつかり合わないように気を付けながら書くことを探っていくと、いつの間にか君たちのことばかりになってしまうんだ。きっと私の文章は、君たちについて記すために続けられてきたんだ、などと私は言わない。まだ問い詰められてはいないから、言わない。言いたいのかもしれないが、言わない。私は自分の言葉の行き着く先の答えを今見つけてしまったのかもしれないが、言わない。
もちろん「アルミニウム」は流れ続けている。息子の徒競走の参観開始時間が近づいてくる。私は執筆と「アルミニウム」の再生とを、どちらを先に止めようかと考えている。痛み止めを飲んで楽な身体になっているのだから、もっと全身を動かさないといけない。指先と頭だけ動かしている場合ではない。眠気がくる。ただただ散歩に行きたい。歩かなければ。立ち上がらなければ。筆を止めなければ。
それでいて筆も止めず、「アルミニウム」も流れ続ける。
ここまで書き終えてから、息子の徒競走参観へと赴いた。1レース6人ずつ走り、息子は6位だった。一生懸命に走る姿を、一番長く見せてくれたともいえる。運動場で「アルミニウム」が流れることはない。私は音楽と言葉との関係に想いを馳せながら、家に帰るといつの間にか眠り込んでいた。水の中で眠るいつもの夢を少しだけ見た。
「君たちのことを書くためだけに書き続けているんだ」と一度達したように見えた結論は保留して、私は故障していたDVDプレイヤーがいつの間にか直っていた、という話を書き始めた。妻にもそのことを知らせた。
(了)
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