さらば愛しき自由たちよ
妻と娘が、義父母と共に二泊三日の旅行に行っているので、私は昨日から束の間のフリーダムを手にしていました。
フリーダムニ日目。
時刻は0時を回ったところです。
仕事が終わり、電車に乗って自宅のある駅まで戻って来た私は、改札を出ると家とは反対の方向に歩き出しました。
すぐ目の前にある信号を一つ渡り、50mほど真っ直ぐ歩いていくと、右手に飲食店の灯が見えてきます。
アメリカやヨーロッパのそれとは一味違う、アジア特有の艶かしく光るネオンサインです。
そのお店は約半年前、私が夏の夜遊びの時に訪れた中国ラーメン店でした。
私は光に集まる夜の虫の如く、ふたたび吸い込まれるようにしてそのお店へと入っていきました。
昨日あれほど餃子を食べたというのに、またしてもこの中華風のお店を選んだのには訳がありました。
それは単純に、深夜までやっていて、おつまみから〆まで楽しめるちょうどいいお店が他になかったのと、約半年前に味わったあの猥雑な空気の中で、このフリーダム二日目を締めくくりたいと思ったからです。
扉を開けて入店すると、私は四名掛けのテーブル席に案内されました。
しかし、この日の店内はとても閑散としていて、前回のような賑わいはありませんでした。
あの時のようにどんちゃん騒ぎをするサラリーマンたちもいなければ、スマートフォンと睨めっこをしながら一人酒を煽るOLも、謎に距離感の近い中年カップルの姿もありません。
そこにいるのは私と同じような仕事帰りの一人客がほとんどで、皆酒も飲まずに夢中でラーメンをすするばかりでした。
想像していた空気感とのあまりの違いに、私は少しがっかりしてしまったのですが、すでに席に着いてしまっていたこともあり、私はとりあえず瓶ビールを注文することにしました。
ビールを待つ間にもう一度周りを見渡してみると、二つ隣の席に、バイト帰りだと思われる女子大生ニ人組がいることに気が付きました。
二人が話している内容から推測するに、どうやらこの近くでのバイトを終えて、腹ごしらえをしにやって来たようです。
一応断っておきますが、私は何も盗み聞きをしていたわけではありません。閑散とした店内の割に二人の声が大きかったため、いやでも話が耳に入ってきてしまったのです。
私が手酌でビールをチビチビやりながら、メニューを開きおつまみを考えていると、女子大生達の話はバイトの話題から恋の話に移り変わりました。
年頃の女の子らしく、仲良くラーメンをすすりながら恋バナに花を咲かせています。
「ねぇ、○○先輩ってイケメンだから絶対彼女いるよね」
「えっ、そうかなぁ、意外とワンチャンあるかもよ。次のバイトの時LINEでも交換してみれば」
「いやいや、そんな簡単に言わないでよっつーの、ってかマジでワンチャンあると思ってんの」
「まぁ、ワンチャンね、ワンチャン」
私は年頃の女子の恋バナに顔がニヤつきそうになるのを防ぐべく、さっそくビールのおつまみを注文することにしました。
「すいません、注文お願いします」
「はーい、どうぞ」
「えっと、エビワンチャン…あっ、すいません、
エビワンタンと春巻きをお願いします」
約3年前、長年勤めていたイタリア料理店を辞めて今の職場に移った私は、初めてこのワンチャンという言葉に出会いました。
聞きなれない言葉だったので、若いバイトの子に意味を尋ねると、「うーん、うまく言えないっすけど、なんでも使える便利な言葉っすよ」と丁寧かつ曖昧に教えてくれました。
それからというもの、私はいつかこの言葉を流暢に使ってみたいと思いながら今まで過ごしてきたのですが、実際にうまく使えたことはまだ一度もありません。
まあ、そんな話はさておき…
私は運ばれてきたエビワンタンと春巻きをつまみながら、感慨に耽っていました。
あの女子大生達とは性別こそ違えども、私にも確かにああいう時代があったのです。
バイト帰りに仲間たちと酒を飲み、社員の愚痴を言い合い、恋の話をして朝を迎える。
そこには楽しいこともあれば、恥ずかしいこともありました。もちろん辛いこともたくさんありました。
果たしてあの時間は、今の私の人生にとって有益だったのか、それとも無益だったのか。
今となってはそれもよく分かりませんが、ワンチャンあの頃に戻れたとしても、きっと私はまた同じことを繰り返すだろうという気がしてなりません。
もう過ぎ去ってしまったあの時間は、たとえ無駄だったとしても、私にとっては必要な時間だったのです。
そんなことを考えながらビールを飲んでいたら、いつのまにか中瓶がニ本開いてしまっていたので、私はそろそろ締めのラーメンを頼むことにしました。
昨晩の餃子で胃が疲れていたこともあり、さっぱり系の王道である醤油ラーメンを注文します。
この店の創業者が、祖父から伝えられたという醤油ラーメンは、透き通るような綺麗なスープに、チャーシュー、ほうれん草、煮卵、メンマがトッピングされていました。
その素朴な見た目通り、シンプルで優しい味わいに、これならいくらでも食べられそうだと私は無心でラーメンをすすり続けました。
しかし、最後の一口を前にして、急に箸が止まります。
決して満腹でもう食べられないという訳ではありません。
ただ、この最後の一口を食べてしまったら、今日という一日が終わってしまうのかと思うと、なんだか切なくて、なかなか口にすることができないのです。
澄んだスープの中には、昨日の思い出が走馬灯のように映り込みます。
全裸でビールを飲んだこと、餃子の山と向き合ったこと、ある著名人の言葉に思いを馳せたこと。
その映像に見入っていると、ふいにスープの中に雫が一粒落ちました。
「あっ、涙」
と一瞬思ったのですが、どうやらそれは手に持っていたグラスから水滴が落ちただけでした。
スープの表面に広がった波紋が、放送時間外のテレビの砂嵐のように、思い出の映像を消しさっていきます。
どうやらそろそろ終わりが近づいているようでした。
女子大生たちも話すことがなくなったのか、それぞれスマートフォンの世界に没入しています。
私は自分に言い聞かせました。
「さあ、そろそろ帰ろう。そして、いつもの日常に戻るんだ。帰って洗濯物を畳まなくちゃいけないし、ゴミもまとめないといけない。やるべきことはまだまだ沢山あるんだから」
私は意を決して最後の一口をすすりました。
普段の生活の中ではなかなか気がつく事ができませんが、戻るべき日常があるということは、実はこの上なく幸せなことなのです。
私は最後の一口を飲み込むと、躊躇なく席を立ち、すぐに会計を済ませ店を後にしました。
そして外に出て家のある方向に歩き出すと、私はお店に背を向けたまま呟きました。
「グッバイ、フリーダム。また会う日まで」と。