vol.191/優しい世界になれる気がして
母に借りていた本を手にとってはまた本棚へと戻してしまう。実に1年以上繰り返した。この本の存在は知っていて、そして読みたいと思ったのは確かなのに、はてどうして?映画の予告編を見て私と物語の間にフィルターがかかってしまったみたい。どうにも重たいテーマで、なんとも暗そうな映画でありストーリー。(確かに重たいテーマであることは間違いないけれど)んーーーヘビーなものは自分のマインドが整っている時でないと色々と持っていかれる。本の主人公やその他の物事に。だから健康状態/精神状態が万全でないと手をつけない(読まない)のが私のちょっとしたポリシー。
手にとっては戻し、手にとっては戻しを繰り返していた私は確かに長いこと万全の状態ではなかったのかもしれない。この一年間本調子になれずにいたのは確かだ。だがそれは唐突にやってきた。とある日、私は無性にこの本が読みたくなって手にとり読み出した。午後3時を過ぎて手にした本をぶっ通し読み続け、気付けば8時を過ぎているではないか。完読。やばい夫が帰ってきてしまう。辺りは真っ暗で大きな月が出ていた。この日は満月だった。
なぜ早く読まなかったのだろう?映画の予告編と私の間にあったフィルターがどう考えても邪魔をしていた。(体調面ももちろんあったよ?あったけれど)母が貸してくれる本はいつだって心の底から共感できる物語だったり、おいおい泣いたりできる作品ばかりでチョイスセンスを讃えている。なのになぜがフィルターをかけてしまっていてズルズル引っ張ってきてしまった。でもなぜだか思う、多分この日この時に私は読むべきだったんだろう。
人は表面だけを見て、自分の解釈しやすいようにそれを捉え咀嚼した気を起こす。それはものでもひとでも、なんでも。真実よりも世間的であったり、思想であったり、そして正義感であったり。真実が真実のまま受け取られることってどのくらいあるのだろうか?受け取らなくてもいい、真実なのだと主張し、ありのまま肯定してくれる割合はどれくらい?そんなことをこの本を読みながら感じて、そして自分に問いかけた。私は真実を真実として受け止めている?それをあらゆるフィルター越しに捉えていないか?映画の予告編と私の間にあったフィルターのように。
わかった気になる
知った気になる
優しくしている気になる
手を差し伸べている気になる
これは愛なのだという気になる
私もそんな思いになること、ある。
そんな自分は何を見て感じて、どう捉えてその考えに至っているのか。毎回毎回噛み砕く余裕はないかもしれないけれど、その物事や人に対して何かフィルターをかけているかもしれない、ということだけでも見つめ直すことができれば。自分が解釈しやすいようにであったり、自分の少しの経験値ばかりに重きをおいて主観のみで視野の狭い咀嚼ばかりをしていては、そのフィルターがどんどん色濃くなっていく気がするから。まずは自分から、その色のついたフィルターの色をできるだけ薄くしていく工夫をしていけば、きっと周りへも自分へも、そして社会も、優しい世界になれる気がして。