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【本】ふたつの波紋 - 伊藤比呂美/町田康

WEBメディア『本の話』で、文學界12月号に掲載された(らしい)伊藤比呂美さん、町田 康さんの対談が一部公開されていた。(2019年の記事を偶然発見した)

もうこの"一部公開"の時点で破茶滅茶に引き込まれ、こんなん続き絶対見たいやん、ということで『ふたつの波紋』を読むに至ったのだった。

対談は全4章。『詩人の条件』に始まり、『「歩き続ける男」の正体-種田山頭火』『「全力の俺」の魅力-中原中也と太宰治』『古典翻訳と創作のはざまで』と続く。

あ、もしかして文芸全般の素養がないと読んだらあかん本かしら、と一瞬よぎるも、その心配はなかった。
それは、確かに知識があるに越したことはないけれど、知識は問いへのトリガーに過ぎず、その問いに対する二人の考え/答えが、驚くほど一ッッッッッッ切噛み合わないことがこの本の最大の魅力だと感じたからだ。(実際私は古典どころか山頭火も中也も読んだことがないし、太宰の良さはそんなに分からない)

対談本ってともすればちょっとぬるい感じのものも多い気がしていて、そのぬるさに何というか、対談している人々と自分の全員で右、或いは左(比喩であって思想ではない)に全力で曲がって行く、みたいなイメージがある。

対して本作は、双方の創作における『私』の据え方が根本から違っていることで、対話が深まり、パーソナルな部分に話が及んだ時、必ずすれ違い、一貫して最後まで交わらない。故にスリリングさに満ちている。

表現において『私』を大切にする伊藤さんと、『私』に拘りすぎることをおもろないと言う町田さん。

とは言え対話の中でお互いの考え方に共通点を見出し、伊藤さんとともに読者も、おおおっ!、となる場面も多々ある。しかし都度話は『私』に戻り、すれ違う。町田さんは「否定しているのではない」「それぞれでいい」と、ある種の諦観を見せる。


本作を読みながら、そして読み終わってから、改めて『私』について考えさせられた。

例えばnoteで雑記ひとつを書くにしても、『私』にとことん向き合って、私の言葉で表現することに目的があるのか、こういう書き方の方が読み手も面白いだろう、という目線で推敲を重ねるのか。

私はどちらだろうか。
両方あるな、と思う。

で、その突き抜けなさ加減が、私が私程度である所以だよなぁ、みたいな事を考えたところでハッとした。おいおい、めちゃくちゃ自分語りで締めようとしとるやないかい。

『もっと自分が人に話したくない事を暴きだせ』
『おもろない』

そんな声が聞こえた気がした。


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