動物運動小史③寄り添い(ケア)の倫理/狩猟をめぐって
*②の続きです。
寄り添いの倫理(ケアの倫理)とは
——生田さんと井上さんは、ウェブ上でそれぞれの著書の書評を書かれて、その上で、いくつか異なる立場を巡って論争されています。とても面白いので、興味のある方はぜひ読んでいただければと思います。
その論争の一つが、先ほどからちょくちょく名前が出ている「ケアの倫理」で、井上さんの訳だと「寄り添いの倫理」と訳されています。まず、ケアの倫理とは改めてどういったものなのか、井上さんご説明お願いします。
井上 これはもともと既存の道徳哲学における理論へのアンチテーゼとして生まれたもので、例えば、人間はいかに振る舞うべきかという原則を打ち立てることがそれまでの倫理の考え方だったんですが、ケアの倫理はまず個別具体的な文脈の中にいる個々の存在——元々は人だったんですが、それが動物にまで応用されるものになりまして、個別具体的な状況の中にいる個の存在に対してどう接していくのがいいかというのを考える倫理になります。
そこではケアの対象になる存在の必要に応じる、相手が何を求めているのかに対して応じていく倫理、相手に寄り添う実践が必要になるのですが、これまでの正義では、例えば、「権利を守る」とか、あるいは「最大多数の最大幸福を実現するための最適な行動を取る」とか、そういう原則に従った行動が良しとされていたのに対して、ケアの倫理では、そういう具体的な現実の中にいる存在の必要に応じるべく、その存在に主観的かつ感情を交えて寄り添うことが必要になってきます。現実の中にいる個々の人なり動物なりはそれぞれの心理・心情を持っているので、共感を持って寄り添うということが、その個にとっての現実を理解し、その個の求めに応じるために必要なプロセスだと考えるからです。そういう意味で、「正義ではこのようになっているから」という原則をまず立てておいて、個々の存在者それぞれの文脈や区別を顧みずに正しい行動を選ぶ、というそれまでの倫理とは一線を画すものになったものだと理解しています。
——そのような「感情の復権」の重要性は井上さんの著書の中でも書かれていました。一方で、生田さんは「感情」ではなく「感性」あるいは「尊厳」であるべきだと主張されていると思うんですけども、改めて生田さんが主張される「尊厳」というものはどういうものなのかご説明お願いできますか?
生田 ケアの倫理はキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』から始まったものですね。最近、岡野八代さんの『ケアの倫理』も出て、それを読みながら改めて考えてたんです。たとえば、『もうひとつの声』で語られた有名な「ハインツのジレンマ」があります。薬を買わないと妻が死んでしまうけど、薬屋は高額でしか売ろうとしない。薬を盗むべきか、妻が死なせてしまうかというジレンマです。そこにあるのは、自分の妻という身近な存在、ここでは「家族」の問題と、市販薬が高くて買えないという「市場」の問題、そして、盗んでしまうと犯罪になるという法的、ある意味「国家」の問題、その三つの領域が重なるところでのジレンマだったと思うんです。
僕だったら、例えば薬屋と分割払いの話をしたたらいいんじゃないかとか、あと今よくあるようにみんなで寄付を集めて薬を買ったらいいんじゃないか、とかいろんな考え方をすると思うんです。でも、薬を盗むか、それとも盗まずに妻を死なせてしまうか、というジレンマの形に無理やりされているわけです。
ギリガンはその中で、正義や犯罪といった概念で捉えるのではなくて、ケースの経過、あるいは特に妻との具体的な人間関係係の中で問題をとらえようとしました。それを、従来の正義の概念とは違う「ケアの倫理」として導き出しました。これについてはいろんな見方があって、たとえば、女性がそういった「ケア」の概念を出すのは、そもそも女性が家族以外の資本や行政などの分野から排除されてきていて、家族的なケアの問題の中に閉じ込められてきた結果じゃないか、という批判があったりしました。その批判はある意味妥当だったと思うんです。つまり、女性が家族の中だけでものを考えることを強いられてきたために「ケアの倫理」を言わざるを得ないという、ある意味、男性が論理、女性が感情といった形に押し込められてきているという批判です。
社会的問題については、カール・ポランニーやエスピン・アンデルセン、柄谷行人が言ってるように、市場と国家と家族という三つの問題があって、その三つの領域からの倫理が考えられることがあります。
ギリガンの場合、ケアというものを家族あるいは身近な他者との関係の中で考えていて、その復権を捉えるんですが、僕は、家族などの身近な他者との関係を第一に置くこともそれはそれで問題ではないか、と思ったんです。ひとつには、この倫理は「家族」を優先して「遠い他者」を不当に軽視する場合が多いからです。
『いのちへの礼儀』の中でも、動物が国家と市場と家族との関係の中で閉じ込められてきて、人間の中で尊厳を奪われているけれども、国家や資本や家族ではない、別の次元での動物との関係があるのではないか、と考えていました。その次元でこそ、動物と人間が尊厳を認めあうことができるのではないか、動物と人間が互いに存在を認め合い、互いに変わりうる関係は、そこで初めて成り立つのではないか、ということです。
ケアの倫理は、法律でも市場での論理でもない別の倫理関係を認めるという点で素晴らしい意味があったと思うんですが、それは身近な他者との関係ではなくて、むしろ遠い他者とか、それこそ人間と動物の関係でもあったように、今までとは全く接点がなかった関係の中で、新たにお互いの尊厳を認め合う倫理が必要ではないか、ということです。つまり、国家と資本と家族以外の、別の社会のあり方を想定することで、別の倫理を作ることができないかということを考えていました。その点で、ギリガンの言ってることは、人間関係の多様性や変化などを強調して、とても参考になるけれども、別の方法があるのではないかということなんです。
井上さんに対する批判では、「感情というものを入れるのはどうか」ということを言ったんですが、運動の中で、特に女性の方から「自分たちの感情をぶつけないと駄目だ」ということを度々言われてきました。つまり、男性が論理だけで物事を語っていて、それで物事を進めようとするのはおかしい、自分たちの感情を尊重することが必要だということです。それに対して、僕と一緒に活動している仲間が、「互いの感情をぶつけるんじゃなく、感性をぶつけ合うことが大事だ」ということを言っていて、僕はそれは納得したんですね。つまり、感情というのは中から浮き上がってくるもので、その重要さは当然なんだけれども、感性というものは、それを相手との関係の中で捉え直したものです。ギリガンが『もうひとつの声』というタイトルで言うように、ケアの倫理は正義の概念と対位法的に補い合うものなんだけれども、感情というものも他の構造的な正義の問題と擦り合わせることによって、感性というものに高めることができるんじゃないかということを考えていました。
なので、ある程度言葉の問題になるかもしれないけれども、感情の問題というよりは感性の問題ではないか。人間と動物のお互いの尊厳を認め合う、という意味での感性というものが重要じゃないかということを考えていたと思います。
狩猟をめぐって①
——「尊厳」というところで、わかりやすい大きな違いの2人の考えの違いは狩猟を巡る是非だと思います。廃絶主義の立場からすると狩猟ももちろん反対ですが、動物の問題について訴えているような本でも、「狩猟は認められるべき」という考え方は結構あったりするように思います。例えば去年出たヘンリー・マンス『僕が肉を食べなくなったわけ』もそうですし、生田さんも狩猟に関しては「礼儀」という観点から肯定されていますよね。[後注:狩猟を認める立場としては、斎藤幸平氏の『ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた』(KADOKAWA、2022)もありました。] そういう点について井上さんはどういうふうに考えますか?
井上 そんなに狩猟擁護の動物論というのはメジャーではないんじゃないかと思います。先ほどの女性運動で生まれてきた動物擁護の中でも、反動物実験というのももちろんあるのですが、キャロル・アダムスの本の中でも、狩猟は批判の対象になっていますし、第一波フェミニズムを担ってきた女性たちは、反動物実験もそうなんですが、その他にも、羽根帽子とか毛皮にも反対して、同じ文脈で狩猟にも反対しているんですね。やっぱり狩猟というのは男性特権の象徴として存在し続けてきた、ということに対して、女性の活動家たちはずっと批判を続けてきたと認識しています。
今、動物倫理と狩猟を両立させようというような議論が出てくるのは、それはちょっと動物倫理の後退じゃないかなと思ってしまいますね。やっぱり、狩猟を擁護する理由というのが(ここからちょっと生田さんと意見が対立するところになるんですが)、例えば狩猟によって動物に健全な恐怖心を植え付けることは動物の尊厳を守ることになる、というような議論[『いのちへの礼儀』p.268-70]は、私にとっては受け入れかねるんです。何で人間が恐怖心を植え付けるんだろうか、と。あと、狩猟がもつ権力に対する問題意識がもっと共有されるべきなんじゃないかと思っています。
あと、狩猟のビジネス化もそうですよね。今、ジビエ・ビジネスとかを行っているんですが、あれは資本と利権なので、狩猟というものがずっとそういうものと結びついてきたということについても目を向けるべきだと思います。狩猟を擁護する倫理的な理由が見えてこないというのが正直なところですね。
——好美さん、お二方の本読まれて、ケアの倫理や狩猟に関してご自身の考えはありますか?
川口 論争だけを読むとすごく激しい対立がある感じがするんですけども、根本のところでは、それほどお二方の言われてることが違うと感じなかったですね。狩猟についての主張は確かに違うし、あと生田さんが強調されている、「日本人は元々肉食にはあまり縁がなかった」という部分にも違いはあるんですけど、根本の、生命の尊厳という部分では共通していますよね。本の書かれ方や、思考のスタイルの差異が大きいのではないかとも感じましたが。
生田さんのおっしゃられるように、現在の人間と動物の関係のギャップの質を考えると、家族などの社会関係を語るときに使われがちなケアっていう言葉をそこに当てはめるのが果たしていいのかどうか。そこはもうちょっと違う言い方をしないといけないのかも、という問題意識はわかる気がします。生田さんのイメージする、動物と人間が隣人になること……。生田さんのこれまでのテクストで、隣人っていうのは、キルケゴールやイエスの言葉から練られていて、そこから家族と国家と資本の外に出るための倫理を考えようするものでした。そのこととの連続性で、ケアというイメージには強度と抽象度が足りないのかな、と。もっと違う名前、異なる質の抽象度が必要なのかな、と。それは感じましたね。
ただし、ギリガンの本を読むと、「ケアの倫理」が大切だよと単純に言ってるわけじゃなくて、多層的で曖昧な、揺れの多い書き方をしています。動物解放の思考と実践のなかで、「ケア=感情的=家族的」という大枠の捉え方自体、転換していかなくちゃいけないのかなとも思いました。
井上 川口さんがすごくいろんなテーマを出してくださったので、まずちょっと(ケアの倫理と狩猟と話が二つにわかれていると思うんですが)、ケアの倫理に関して言うと、身近な他者との関係を重視するという立場ももちろんあるんですが、それだけじゃない、ということを『最前線』の中でも強調しました。
個別具体的な文脈の中にいる個の求めに寄り添うという実践は、遠い他者に対してもなしうると。それは私達が現に社会正義の中で行っていることだと思うんですね。他国で戦争被害に遭っている人たちに対して、その人たちが何を求めているのかというのを、共感を持って理解してエンパワメントを行うとか、支援を行うというような、これは寄り添いの姿勢だと思うんです。なので、市場とか国家とかそういう大きい政治的な話になってくるとケアが通用しなくなる、といったことはないと私は考えています。むしろそういうところでこそ、原則論だけで考えるんじゃなくて、構造の中にいる個々の人々や動物たちに感情を持って寄り添うことの重要さが顧みられるべきなんじゃないかと考えています。
それから狩猟に関してなんですが、先ほど「基本的な方向性は同じなんじゃないか」というふうに川口さんにはおっしゃっていただいたんですが、私も生田さんが嘲笑といった形で終わらすんじゃなくて、動物との向き合い方を真摯に考えた結果、『いのちへの礼儀』という本を書かれたということに関してはすごくうれしかったんですね。ただ、狩猟に関して言うと、これはどっちでもいいというような立場ではなく、生き物を殺すか殺さないかという話なので、曖昧にしちゃいけない、意見の違いという形に矮小化してはいけない問題なんだと思います。人間に対してであれば、私たちは「殺すな」という原則だけは断言できると思うんですけど、動物に対してはなぜ「殺すな」という大大大原則が言えないのかということは、本当に考える必要があると思います。
生田 ケアの倫理については、それが遠い他者に対しても行えるべきだというのは、もちろん僕もよくわかります。たとえば、我々が野宿の人という、近いけれども遠い他者に対して、そばに行って自分に何かできないか考えるというのは、ある意味、家族的な倫理じゃなくて遠い他者への倫理だと思うんですよ。しかし、野宿問題に関する議論の中でずっと指摘してきましたが、それは資本・国家・家族の外にある倫理であるべきではないかと思います。
一方で、市場と国家はケアを取り込んでると思うんです。例えば、市場はどんどんケア労働を市場化しているし、国家は介護保険などの形でどんどん制度化している。それによって市場や国家が感情化されケア化されたかというと全くそうではなくて、介護や保育、医療などの問題は確かに一部解決したけれども、外国人女性のケア労働者問題がそうですが、別種の深刻な問題を生んでしまっているわけですよね。
遠い他者への共感はもちろん我々に常にありますし、それこそ多くの日本人が地震の映像を見て心を痛め、ボランティアに行く人もいる。戦争の映像を見て心を痛めてカンパをする、時には現場に行くこともあります。けれども、ただ、それを「ケアの倫理」というより、もっと厳密に言うべきじゃないかと思ったんです。それは、資本・国家・家族という枠組みではない第4の方向で、感情というよりは感性という形で定式化した方がいいんじゃないか、ということです。
もう一つは、狩猟の問題です。[川口さんがぼくと井上さんの言っていることはそれほど違わないのでは、と言われましたが、20世紀後半以降の工場畜産を否定する、という点では一致しているだろうと思います。一方、現代のアニマルウェルフェアや有史以来の小規模な伝統畜産、そして漁や猟についてははっきり異なる、という事ですよね。これは井上さんがヴイーガンであり、ぼくがフレキシタリアンであるという立場の違いが関わるところでしょう。
具体的な運動方針として、大規模な動物虐待が起り続けている工場畜産の解決が最優先だと思います。ただ、井上さんの言われるように、殺すか殺さないかという重大な問題があるので、狩猟の問題点は曖昧にできないということです。]
僕が狩猟について考えたのは、「もし仮に肉を食べるのであれば、ああいった覚悟でやるべきだ」という一つの例だと思うんです。つまり、多くの日本人、あるいは世界の人たちが、工場畜産で作られた肉を何の問題も感じずに食べている。ただ、今、意識的に狩猟を行なっている人たちは、そういった問題を知った上で、もし自分たちが肉を食べるんであれば、最低この程度の覚悟を持ってなければいけないということを身をもって示していると思うんです。もちろんヴィーガン的な立場で言えば、そもそも動物を殺して食べること自体論外なんですけれども、仮に人間が肉を食べるということを前提とするならば、あれが一つの極限値であって、問題提起として大きな意味があるだろうと思っています。
ここでもう一つ、日本の場合、シカとイノシシの問題が大きいです。オオカミの絶滅や森林業の衰退による山の放置など、いろいろな要因によってシカやイノシシが爆発的に増えています。[シンポジウムの中で、シカ、特にイノシシの生息推定数は近年大きく減少している、という指摘がありました。その通りで、ぼくの間違いでした。000124721.pdf (env.go.jp)]。そして、2020年前後では毎年70万頭のシカ、60万頭のイノシシが殺処分されて、大半が土に埋められている状態になっています(suishin-175.pdf (maff.go.jpの4ページ)
最近は野生動物による農作物被害がよく報道されていますが、これは里山が減少して山と農作地が接してしまった「野生動物の隣人化」が要因の一つとして言われています。つまり、人間と動物の環境に構造的な問題が発生してしまって、シカ、イノシシが——最近クマやサルの問題もよく報道されますが——暴力的に殺されている状態があります。そういう中では、特に狩猟を問題とするのでなく、むしろ環境的に動物と人間はどう両立するかということが最優先に来るべきじゃないかと思っています。
井上 ケアの商品化が行われているということに関しては、それはそれで問題だとは思うんですが、それと、社会正義を行う者が「感情を排して論理的に」のような姿勢ではなく、感情を働かしてケアを行うということは、ちょっと次元が違う実践だと思う、という点がまず一つあります。
あと、「肉を食べるとすれば狩猟のような覚悟が必要」という論点に関しては、その考え方はよくあるんですよね。動物殺しというか、食べる動物と食べない動物を分けようとする人って「自分で殺せる動物は食べる」とか言うんですよ。 だから「牛や豚は食べない。でも鶏なら自分で殺せる気がするから食べる」とか、「魚だったら殺せる気がするから食べる」だとか、そういうふうに自分が倫理的抵抗を覚えない動物は食べるみたいなことって、先ほどの「狩猟をやるぐらいの覚悟」という話と近い位置にある、というのは感じました。殺せる動物/殺せない動物の境を元に考えるということの恐ろしさをもうちょっと考えた方がいいんじゃないかなと思います。
あと、個体数管理の論理と、先ほどの「健全な恐怖心を植えて、動物の尊厳を守る」みたいな話というのは、全く違うものになるので、生田さんのおっしゃっていることが私にはぶれているように見えるというのがあります。ただ、狩猟に関しては今、多分オーディエンスの方も感じていることがあると思うので、その方々の意見も後で聞いてみたいです。
——ちなみに私は、肉をやめ始めた当初は、井上さんが今おっしゃられたように、「自分が殺せないものは食べるのやめよう」というところから始まったんですよ。「牛は無理、鶏は無理、豚は無理。でも魚は殺せる気がするからOK」といった感じで、はじめはペスカタリアンになって、結局その流れでヴィーガンになったんですけど、初めは生田さんのおっしゃる「覚悟を持って殺せるか」といった基準を自分の中で想定してたんですが、ヴィーガンとして考えてるうちに、「殺しても殺さなくてもいいという選択肢や決定権を私が持っているのに、そこで殺すことを選ぶのは、やはり単なる暴力であって、全然フェアじゃないだろう」という考え方に変わっていきました。
狩猟をめぐって②
——質問が来ました。「生田さんへご質問です。『野生動物を殺して食べることに覚悟を持って…』ということですが、その覚悟とはどのような覚悟でしょうか? 倫理的抵抗がない動物種の殺害はできるということは、差別に基づく感覚麻痺だと思うのですが、どうでしょう?」
・・・わたしも狩猟に関しては、以前は「尊厳」の観点から肯定的に見ていましたが、この点に関しては、性暴力と動物の問題を重ねて考えていくにつれ、「加害者側の意図や思惑は、加害行為を肯定することにはならない」という性暴力の原則を、狩猟に関しても当てはめるべきではないであろうか、と考え直しています。
というのも、加害者側の「覚悟」を正当化するなら、性暴力でも「本気で好きだったんだ」という加害者の言い訳は通用してしまう危険性があり、かなり慎重にならなくてはならないマッチョなロジックなのではないだろうかとわたしは懸念を抱いてきているのですが、その点、生田さんはどうお考えでしょうか?
生田 確かに、ヴィーガンの立場からはその通りなんだと思います。[ただ、現状では多くの人間が工場畜産によって膨大な動物を虐待状態で飼育し殺して食べています。その社会のありかたを変化させていく必要がありますが、それを一気に解決する事は当面は無理で、運動によって徐々に改善していくしかないでしょう。これは貧困問題と同じだと思うんです。貧困は当然解決すべきですが、完全な社会的解決は現実として当分は無理なので、少しずつでも改善していくしかありません]。
さきほど少し言ったように、意識的に狩猟を行なっている人たちは、他の人に動物を殺させて食べるという姿勢を拒否して、人間が動物を食べることの意味を原点から示していると思います。これは、工場畜産のような動物との関係とは次元が全く異なります。簡単にスーパーで肉を買ったりコンビニでからあげなどを買うのと、自分が狩猟してさばいて食べるということの違いは歴然としてあると思うので、そこはやはり覚悟というものがあるんじゃないかと思います。「動物を可能な限り殺さない」というスタンスはもちろん理想ですが、工場畜産や漁業のあり方を考えても、大多数の人にそれを求めても現状ではほぼ実現不可能で、多様な改善の方法を示していくのが現実的だと思います。
それに、先ほど言ったように、日本の場合、多くのイノシシや鹿を人間が殺して無意味に埋めている状態が続いています。そういった中で、例えば猟師が狩猟をしていることがどの程度批判されるべきかについては疑問があります。
また、深沢さんの言われるように、性暴力で「本気で好きだったんだ」というような言い訳を加害者がすることは、それ自体が加害行為であって許されないと思います。それこそ、他者の尊厳を顧みないマッチョな独善性ですから。
一方で、「動物を殺して食べる」ことに意識的に向き合って行われる狩猟は、「他人に動物を殺させて食べている」ことに無自覚な多くの人に、人間の動物への危害性の原点を振り返させる意味を持っていると思うんです。ヴィーガンの立場からは「動物を殺して食べる」狩猟そのものが批判の対象になるでしょうが、圧倒的に工場畜産に支配されているわれわれの社会の中では、マッチョな加害性というより、動物との関係を振り返る一つの例になりえるのでは、と感じています。
川口 日ごろ親しくしている人に、狩猟をやってる方が何人かいるんですよね。それは別にジビエがどうとか、個体数の調整がどうとか関係なく、昔から里山に住んでいて、おじいちゃんと一緒に山に入っていた。お父さんも狩猟会のメンバーだった。鉄砲を譲り受けた。そんな人がほとんどです。しかし、過疎化が進み、ハンターが減って困っている面もあって、単純に山に入れる人が減るんですよね。役場の職員なんて山のことはなにもわかりませんから、昔から日常的に山に入っていた人って正直貴重なんですよ。そういう人のアドバイスがないと、間違った場所に道をとおして土砂崩れが起こり、環境が破壊されてしまう。そういう問題があるのは確かです。命を奪う、食べることへの「覚悟」については、深く考えている方もいれば、全く考えていない方もいる、というのがわたしの印象です。
井上さんがおっしゃるように、この「殺すな」という原則が人間には通用するのに、動物は類によって分けられたりするのはおかしい、という点は全く同意します。なんですけども、さっきの話で、毒のあるカエルを手に置いてくれた子どもとこの先の動物解放のことを一緒に考えていきたいと思ったときに、その反動で、工場畜産の肉しか知らない子どもだけだというのはどうなんだろう、と感じるんですよね。動物を食べていること、動物を殺していることにも、いろんな段階があるということを、からだで知ってほしい、特に子どもには知ってほしい、その上でつぎのステップに、というのが正直な気持ちです。
井上 先ほど川口さんのおっしゃってたことで、地元の猟師さんたちは個体数調整でやっているのではない、というところに大きい意味があったと思うんですね。猟師の人たちが「シカやイノシシが増えすぎてるから、自分たちは生態系を維持するために狩猟をやってるんだ」といったとすれば、それは自分が楽しくて行っている狩猟を正当化する言い分でしかないと思うんです。人間って本当に正当化が好きな生き物なので、例えば、釣り師であれば「自分たちは川の環境を守っているんだ」というようなことを言ってみたり、もっと言っちゃえば、買春者でもそうですよね。買春者は「性を買うことによって女性たちの生活を助けてるんだ」というようなことまで平気で言う。それって有害男性性とも結びついているところだと思うので、そういうレトリックに与することはできない。
じゃあ、動物たちが増えすぎていたらどうなのか、ということなのですが、「猟師が減っている」という説に反して、実際のところ、シカやイノシシの捕殺数はずっと増え続けているという現実もあります。もし動物たちが増えすぎることが本当に問題だというのであれば、海外でも試されている不妊法など、殺さない解決策が図られてもいいだろう、と思っています。あと、日本の場合であれば、人工林をどんどん増やしていった「拡大造林」という政策があるんですが、そういうものを見直して、本来の在来の生態系を戻すことによって、動物たちの生息地を増やし回復していく。そういうことによって動物との共存を図るべきだというふうに考えています。
——ありがとうございます。同じ質問者の方から補足がありました。「すみません、シカ個体数は今のところは増えていないということです(正確には個体数の回復)。イノシシの個体数は全く把握されていません。 しかし、増えたと言って個体数管理(駆除)が行われています。」ということでした。
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