筋トレしながら考える原因論と目的論
筋トレが好きです。
最近は、右肩前部の怪我の影響で肩回りでバーベルを支えたり、駆動させたりすることが難しく、スクワットやベンチプレスが満足に出来ない影響か体重が増加気味です。
ブルガリアンスクワットを始めとした補助種目に切り替えてトレーニング自体は行うものの、やはり根本的に違いがあるのでしょうね。
食事自体はあまり弄ってないので、絶対的な運動量を増やすための取り組みが必要なのかもしれません。
さて、そうやって痛みを抱えながら、それでも筋トレしていると、自ずとセット間の休憩時間が長くなりがちです。痛みが引くのを待つ時間は、正直暇で、ぼーっと色々と思いを巡らせる時間になります。ここ最近は、友人のツイート"感情はコントロールできるもの"というのが面白くて、それについて考えることが多くなっていました。
今日はそこから筋トレを経てある種の結論に至った、私の1つの仮説にお付き合いいただけると嬉しく思います。
先ずその方と私はもう数年来の付き合いがある友人です。月に1回か2回くらいは、なんだかんだ雑談する機会があるくらいの仲と言えば良いでしょうか。
そして、そのツイートの数日前にも少し話をしていて、その中で出た話題の1つに、体調管理と運動習慣というものがありました。
前述の通り、私には運動習慣がありますが、相手には無いと思っていただければ幸いですが、相手側も運動が良いことということは理解しています。
ところが、運動は"嫌い"であると仰っています。
実は私も、運動が好きだったわけではありません。運動の中で、特に走ることが苦手で嫌いでした。いや、今でも走ることは嫌いです。幼少のころは走るのが速いことが正義ですから、体育等もあまり好きではなかったのを覚えています。
こういう感覚が大きく変わったのは、小学校の3年生くらいだったと記憶しています。この頃学校では夏のプールの授業で泳ぐということが始まったり、キックベースやラケットベース、ポートボール等、パワーを用いて走るための時間を作り出す競技、純粋な脚の速さだけでは優劣が決まらない種目を行う機会が増えます。
教育熱心だった母の影響で水泳を習っていた私は、水泳では勿論躍動出来ましたし、年の割に雄々しい上半身をフルに使え、かつ左利きである特性が優位に働く種目では、今までのうっ憤を晴らすような活躍が出来ました。
相変わらず走るだけの授業は苦手でしたが、体育という時間自体にそこまで苦しさを感じることはなく、寧ろ自信を持って臨めるようになったことで気付けば跳び箱なんかもいつの間にか8段を跳べるようになっていたので、今顧みれば、そこで得た成功体験というものが如何に大きかったのか実感出来ます。
苦手だから嫌いになり、やらない。得意だから好きになり、やる。
とても単純なことですが、真理に近いことでもあるように思います。
小学校に通うくらいの年齢であれば、与えられたものをとりあえずやり、上手くいけば好きになるし、上手くいかなければ嫌いになる人が多いのではないでしょうか。
私の過去を振り返っても、水泳の話は出していますが、同じような時期に始めたサッカーは続きませんでした。また、珠算と書道も同じ時期に始め、珠算は続きましたが、書道はあっという間に辞めてしまいましたね。
どれもきっかけは、"友達に誘われたから"だったような気がします。ただ、早い段階で辞める決断をしているのは自閉症らしさなのかもしれません。
この"友達に誘われたから"習い事を始めるという考え方は、タイトルの通り"原因論"を基にした考え方です。ここまで読んでくださっている方であれば、特に何も違和感なく理解していただけると思っています。
ではもう1つの"目的論"を基にここを書き直すとどうなるかということですが、基本的な考え方に沿うのであれば、"友達と過ごす時間を増やすために"習い事を始めるといった感じでしょうか。
簡単に言えば、原因があって行動があるのか、目的があって行動があるのかという違いと感じていただければ良いです。
それぞれについてもっと詳しく知りたい方は、フロイトとアドラーについて学んでいただければ良いと思います。
目的があって行動するということを念頭に、体育について振り返るのであれば、自分の醜態(走るのが遅い)を晒したくないから体育が嫌い。
という風に置き換えることが出来ます。少し違和感があるかもしれませんが、均一に教育され、全てに普通以上であることを求められる教育・文化の中で、他者と比べて明らかに劣っていることが恥ずかしいという感情が芽生える年頃であればこういう考え方をどこかしらてしていてもおかしいことは無いと思います。
習い事に関して言うと、サッカーは誘ってくれた友達が引っ越しで辞めてしまったというのがあったはずです。友達と過ごすためのサッカーだったのに、その目的が果たせなくなったのであれば、続ける意味はないので辞めるのは自然なことのような気がします。
書道に関してはちょっと記憶にないのですが、珠算は誘ってくれた友達と一緒に通い始めた場所のレベルが低いことに不満を覚えて、少し遠くの評判が良かった珠算塾に移ってまで続けていましたから、珠算もまた"友達と過ごす時間を増やすために"始めたはずでしたが、いつの間にか珠算自体のレベルアップが目的に変わったのでしょうね。そもそもサッカーと違って珠算塾の中で友達とワイワイしゃべりながらやるなんてことは無いですから、行きと帰りしかない僅かな時間を共有する意味があまりない(目的を果たす手段として適していない)と感じたのかもしれません。
それではそろそろ筋トレの話に戻りましょう。
ジムに通う方なら、その利用者の多くが男性であることを知っていると思います。スポーツサステナビリティ白書(2022)によると、筋トレ人口は男性27.4%、女性は14.4%。運動習慣(1回30分以上、週2回以上)というカテゴリで見ても、男性は33.4%、女性は25.1%です。
運動することは身体に良いということは、今日日多くの人が認知しています。勿論運動=ジムではありませんが、天気や寒暖に左右されることなく、年中整った環境で安定して身体を動かすのにこれほど適した場所は、そう多くありません。
では、この差はどこから生まれているのでしょうか。
原因論と目的論という話を出しているので、もう仮説は出ているようなものですが、ここが影響しているのかなーというのが、今回のお話です。前置きが長かったですね。
私は男性なので、男性目線での仮説になってしまいますが、男性は幼いころから筋骨隆々のキャラクターが出てくる漫画やアニメを見る機会が多く、そういったキャラは大抵トレーニングや運動習慣のレベルを遥かに超えたスポーツをしていることが多いです。
私の世代であればドラゴンボールが正しくそうですね。精神と時の部屋や、重力を何倍にも出来る宇宙船の中でひたすら筋トレすると、身体のサイズが一回り大きくなって強くなるわけです。
部活系の漫画なんかでも大抵そうですし、そもそも児童から生徒になり、部活動で必死に汗を流すようになれば、顔はともかく身体はその競技に合わせた洗練された風貌に進化していきます。そしてその究極の形であれば、どういう形でもそれなりに格好良く感じることが出来ると思います。
極端な例を挙げていきますが、ボディビルダーの横川尚隆、ラグビーの稲垣啓太、ボクシングの井上尚弥、三者三様の身体つきですが、全員格好良いですよね。少なくとも私は、そう思っています。
そう、男性の多くは、ハードにトレーニングしたり、スポーツに打ち込んだりすれば、顔はともかく格好良い身体になれると信じているのだと思いますし、そこに対してあまりに多くのサンプルがあります。意図的に集めようとしなくても確証バイアスに歯止めがかからなくなる程度には、腐るほどゴロゴロとサンプルが転がっています。
そして、"自身も良い身体になりたい"という目的論で筋トレする人が多いように感じています。勿論、"良い身体になった上で実現したいもっと大きな目標"がある人も多いと思います。
では女性はどうでしょうか。私の狭い知人関係で言ってしまうのは少々申し訳ないのですが、プロポーションを気にする女性の中に、骨格というワードを使う方が非常に多いように感じています。
あまり詳しくはないのですが、ストレート、ウェーブ、ナチュラルとか言われているやつです。
~~骨格だから筋トレしない、筋トレすると太って見えるようになる。と、良く仰っています。
この骨格の話、男性側ではあまり多く語られませんが、似たようなことが話題になることがあります。所謂シェイプタイプというやつで、VシェイプとTシェイプ、ローラットとハイラットの違いを生む骨格の差というものですね。
分かりやすく参考画像を1枚貼っておくと、
こんな感じのやつです。左側がローラットでVシェイプ、右側がハイラットでTシェイプになります。
何が違うのかというと、広背筋(ラット)が腰のあたりまで伸びている、低い位置から羽のように広がっていく人はロー(低い)ラットと呼ばれ、結果的に上半身がV字の逆三角形を描きますが、背筋が背中の上の方(ハイラット)に纏まった付き方をしている場合、大胸筋周りの立体感、サイズ感が強調され、結果的に腰がより細く見え、逆三角形というよりはT字のように見えるという話です。
どちらが良いかというのは主観ではあるかもしれませんが、どちらの男性も複数回、世界で一番サーフパンツの似合う男性コンテストで優勝しており、世界基準で"どちらも良い"という判定が出ています。
これだけ露骨な骨格の違いがありながら同じ土俵に立ち、その上で競って甲乙付け難いと判断されているのであれば、骨格どうこう語る前に先ず筋トレするのが良いのではないか?と思っています。
そういう観点で見ていくと、骨格が~~だから筋トレ・運動はしないというのは、原因論で行動を起こしています。男性が筋トレする理由とは真逆の順序で物事を考えていることになります。
男性の場合は、前述の通り筋トレしない理由を探すのが大変なくらい、筋トレする理由、目的が幼いころから眼前に溢れています。それこそ何か理由を無理やりでも探そうとするのなら、運動をするという経験の中で、成功体験を得ることが出来た経験がないからということか、単純に時間的な問題くらいしかないのではないでしょうか。実際運動習慣を持つ人の割合は、定年退職後に時間の出来た60代、70代の男性が最も高くなっています。やりたいけど時間がないという層が一定数存在するというのは、このデータから見て取れますね。
筋トレする側の人からすれば、運動する人が増えれば、社会保障費負担の軽減を始め、多くの合理的なメリットがあるにも関わらず、やる人が少ない。尤もらしい"時間が無くて"という理由は、データから見て言い訳として成立することは理解出来ました。
ただ、そういうデータを見れば見るほど、骨格が~~とか、筋トレ太りという意見を見れば見るほど、単純にやりたくないから、嫌いだから、やらなくても良い理由を探しているだけではないかという苛立ちを感じてしまうのは、仕方がないのかもしれないです。
ただ思考を順序立てて考えていけば、自分たちは目的論で行動を起こしているのに対し、相手が原因論で行動するタイプのヒトであったなら、この話というのはするだけ無駄であるように感じます。
単純に男女の違いというつもりは全くありませんが、この視点が抜け落ちた両者が意見を出し合っても、何も解決しないというか、筋トレに限らずこういう視点が無い状態で何か意見を出し合っても、上手く話し合うことが難しいように感じます。
私はどちらかと言えば、元々目的論側の人間です。何かするとき、目的が明確であることが多い気がします。
そうなった上で、恐らく一番大きな影響を受けているのは福沢諭吉先生だと思います。そういう学校で育ちましたから、当たり前ではあると思うのですけど。
ただ最近までずっと、先生や、それに近い思想を持ったセネカやニーチェの書物の中に、どうしてこれほど賢く、合理的な思想を持っているにもかかわらず女性蔑視的な思想が所々垣間見えるのか不思議に思っていましたが(時代的なものもあるかもしれません)、その一端がこの原因論と目的論の違いにあったのかもしれないと、今回の件を通して思いました。
そう、この原因論と目的論は、セネカは勿論、ニーチェや先生の後になって確立された、心理学から生まれた考え方でもあるのです。
今回の件は"筋トレ"と"男女"について話してきましたが、正直運動経験や性別に限らず、他者の行動を見る時、原因論で~~しないを多用する人と長く関係を続けることは時間の無駄であると最近思うようになり、そういった傾向のある方とは距離を置くように努めています。
正直に言ってしまうと、大分楽になりました。
原因論はゴミ、目的論が至高なんて言うつもりは毛頭ないですが、目的論で行動する方の方が全体的に発想がポジティブで、強さと心地よさを感じます。
そして、ここまで読んでくださっている熱心な方であれば、もう”感情はコントロールできるもの"とツイートした友人の性別がどちらであるかを察するのが容易だと思います。
少し意地汚いのは理解していますが、次に会って話す際にこの話題には必ず触れようと思っています。
楽しみですね。