隣の席のフィリップ・シーモア・ホフマン
隣の席の男性事務員はフィリップ・シーモア・ホフマンに似ている。入社して一週間経つがあまり話したことがない。
シーモアさんは仕事が一段落したのだろうか、フーっと大きく息を吐いた。それからガサガサワシャワシャと猫がレジ袋をあさるような音をたて騒がしくしていた。落ち着いたかなと思ったころ、ペリペリパキャパキャとプラスチックを割る高い音が響き、間髪おかず、通り雨が地面を打つようなサーという音が聞こえてきた。
シーモアさんの机を覗くと、銀色の小袋から塩らしきものをプラスチックの器に注いでいた。インスタントラーメンを作るような仕草だった。長方形の器には二つの窪みが設けられていて、それぞれの窪みに、薄い桃色の液体が張られている。左の窪みにはシーモアさんが注いだと思われる塩が薄桃色の海に浮かんでいた。シーモアさんはフォークを丸っこい指でつまみ、塩を混ぜ始めた。塩は薄桃色の海水と空気をとりこみながら、ぶくぶくと泡をたて始めた。不思議なことに、泡がたつにつれ粘り気と体積が増していき、塩が緑色に変化し、オノコロ島もかくやとばかりに、大地が生まれた。
シーモアさんは私の視線に気づき、顔をこちらに向ける。なにか説明してくれるかと期待したが、すぐに器に視線を戻そうとしたので「ねるねるねるね…?」と小声で引き留めた。
「いえ。スライムです」と眼鏡のレンズをキラリ輝かせる。予想外の答えに戸惑っていると、器を包んでいたと思われるパッケージを見せてくれた。
「ふしぎはっけん。のびのびスライム」
「おいしく実験!2つの味が楽しめる!ソーダ味&マスカット味」
と文字が躍っている。
恐らくシーモアさんは話しかけられたいが為にこんな奇特なものを会社に持ち込んでいるのではと判断した。しかし、私は、会社の人間が嫌いすぎて、事務所内ではなるべく会話をしないように心がけているような人間である。ふと漏らした何気ない一言にさえマウントをとろうとオラオラ群がってくる獣じみた輩ばかりだった。なかなか言葉がでてこない。そんな時は、いつも、はははと空笑いでやり過ごしていた。しかしシーモアさんのいじましさに心うたれ、逃げずに言葉を絞り出した。
「スライムなのに食べ物なんだね」
「そうなんです。一応、チークガシなんです。カルシウムも豊富なんですよ」と得意気なシーモアさん。
「チーク………チーク………」
今度は言葉の意味が分からずに、口籠っていると、シーモアさんは微笑みをわずかにたたえて正面を向こうとする。
あれ、もう帰り支度なの。せっかく仕掛けた針に獲物が食いついたのになにその淡泊さ、それとも食いついたのが雑魚だったからってこと、なんなの、もう少しこちらからも食いついてこいってことなの、針を胃まで飲み込む勢いでいかないとダメってことかよ、と憤慨した私は無理やりアドレナリンをふんぬと分泌させ「知育」という文字を頭の中にフラッシュさせた。
「創造力をはぐくむお菓子ってことだよね。教育的なってこと。レゴ的な。しかも、カルシウムも配合されていてサプリ的な要素もあるんだね。すごいね! けどさ、スライムとしては百点だけど、食べ物としてはどうなの?」と勢いよくまくしたてた。
突如として饒舌になった私に怯むことなく、シーモアさんはこれが答えだとばかりに、笑みを浮かべながらスティックを口に運んだ。トレイから口元まで三十センチほどあるが、細く長く伸びたスライムは途切れることなくシーモアさんの唇に吸い込まれていった。
妙に血色の良い唇だった。鮮やかな赤にわずかに残る緑、コントラストの見事さに思わず見とれてしまった。この人、フィリップ・シーモア・ホフマンの生まれ変わりなんじゃないのだろうか。これなんという映画。フィリップ・シーモア・ホフマンに似ているというよりフィリップ・シーモア・ホフマンのもつ謎めいたたずまいと同じ種類の魅力をもっている。
気づくとシーモアさんが薄茶色の瞳でこちらをのぞき込んでいる。遠視なのだろうか凸レンズの作用で、レンズの中の部位だけが、他の顔の部位より拡大されている。かける人によってはコミカルでちぐはぐな印象を与えそうである。しかし、シーモアさんのまつげの長さやはかなげな瞳の色、寂し気な目尻は、意地悪な凸レンズの効果を打ち負かし、なおかつ繊細な印象を与えてくる。この人の顔、クローズアップのまま長いこと耐えられるな。ますますフィリップ・シーモア・ホフマンだな。語らなくても表情のわずかな変化だけで演技できそう。こんなインチキ会社で働いてるのがもったいないなと思った。そのままの感想を口にしようとしたが、机の上のスライムに気づいた別の同僚が「ねるねるねるね!ねるねるねるね!」と騒ぎだしたので未遂のまま終わった。
今つくづくと思うことがある。邪魔が入ってよかったと。まだろくに会話も交わしたことのない隣の席のおっさんが、唐突に意図不明な賛辞をおくってきたかと思ったら、次の瞬間、森のくまさんのように「お逃げなさい」と諭してくるという気持ち悪さである。
フィリップ・シーモア・ホフマンならどう返していたのだろう。今となっては確かめるすべもない。