写真とは、世界を愛おしく思う感性
とあるnoteで、写真についてのこだわりのコメントがありました。
思索心をくすぐるとても面白いコメントで嬉しくなりました。
テーマとして持ち帰り、写真とは何だろう?を改めて考えています。
写真とは、「この世界の一部」をカメラによって切り取られた画像です。
「この世界の一部」とは、ありとあらゆる存在であり、存在の組み合わせです。
一部ではありますが、一部が世界を映し出したりもします。
全ての存在は、うまれてきて、やがて無に帰します。
また時間、光、陰、etc..により変化もします。
存在そのものも、存在が見せる表情も常に変化します。
絶え間なく変化するうえに、アングルや構図によっても千差万別の表情をみせます。
それが世界の一部でもあり、世界でもあります。
写真とは人間がカメラという道具をつかい「変化する世界の表情の一部」を切り取ることです。
世界は、どう切り取られるか?
写真を撮ろうとする人間の意思によって切り取られます。
人により、意思は、いろいろあります。
あるんでしょうが、気づかないものは切り取りません。
気づかなければ意思を働かしようがない。
気づいたからこその意思であり、意思は感性が振れたものです。
感性という針が、軽く振れたから軽く写真を撮る、こともあれば、とことん振れるところまで追求して写真を撮ることもある。
ワタシは後者です。
おそらく冒頭で紹介した面白いコメントを書かれた方も後者でしょう。
写真をみているとこだわりというか、思いが伝わってきます。
写真へのこだわりとは、つまり感性が振れることへのこだわりなんでしょう。
自らの感性へのこだわりなんです。
「変化することの世界の一部」を、自らの感性によって切り取る方法が、写真だった。
自らの感性そのものを表現するのが写真だった。
詩人や小説家は言葉によって、音楽家は音によってのように、写真によって、だった。
さて問題は、なんにしろ感性が振れるということです。
個のなかに、いかに鋭く、深く、大きく振れる感性があるか?は大切です。
感性が振れなければ、切り取る被写体への追求もありません。
写真は、被写体にたいしての、自らの感性が一番振れるところへの終わりなき追求です。
世界は常に変化しつづけるわけですから、終わりもありません。
自己満足もありません。自己満足した瞬間からそれは過去になります。
という意味では、写真を通し世界を追求をすることで常にあらたな感性が振れることの修行をしている、ということもあるかもしれません。
こういうことは実際に言葉にしないだけで、写真を撮る人は感覚として知っている気がします。
写真を取り続けることで、それまで見えなかった何かが見えるようになってくる。
あらたな感性の発露ですし、すこしづつ感性の振れ幅が広がっている。
被写体の発見は、自らの新たな感性の発露です。
それを成長というのかもしれません。
ワタシはそれは被写体、つまり世界からのギフトだと思っています。
嬉しいギフトです。
ギフトをくれた世界に対して、感性を大きく振れさせてくれることの感謝と愛しさが生まれます。
世界に対し愛しさが生まれるから、さらに感性の振れることを追求します。
さらに世界の魅力を見出します。
それはさらにさらに自ら感性を深く豊かにするということでもあります。
やがて世界のあらゆるものに感性が振れるようになる気がします。
あらゆるものの魅力を見出そうとする。
世界が愛おしくなる。
人が存在する世界を愛おしく思う。
これを共感したい、というのは人の性なのかもしれません。
だからnoteで写真を公表するのかもしれません。