【オバちゃんの読書感想文】 「こころ」 夏目漱石 著
私が中学校2年生のとき、いつもサッカーをして真っ黒だったS君が本を読んでいた。彼は根が真面目だったので、本を読んでいても驚くことはなかった。その時S君が読んでいた本が「こころ」であった。
私は色々な本を読んでいたけれども当時「こころ」は読んでいなかった。S君が読んで私が読んでいないということに、負けたような悔しさなのか、知への探究心を示した彼への対抗心なのか、なにか分からないが一刻も早く読まなければならないという気持ちになったことは鮮明に記憶している。
「こころ」は私にとってそんな本である。それ以降、10年に1度ぐらいの割合で手に取っている。なぜかは分からないが、なんとなく「読まなきゃ」という気持ちが湧いてくる。そして必ずS君を思い出す。彼もきっと良いオジさんになっていることだろう。
そんな思い出の本を改めて手に取った今回、オバちゃんの感想文を書いてみようと思いついた。そして、NOTEを始めてみることにした。
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舞台は明治末期。日露戦争が終わったあたりの日本は、欧米列強に少しでも近づこうとしていた時期であり、生活様式や環境がガラッと変わった、そんな時代だったのだと思う。イメージ的には勢いに乗っている時代で、国自体もそこにいる国民も前に進む力でみなぎっている、そのようなイメージを勝手に持っている。一方、昭和生まれの私であっても明治時代はいい意味で「古い」「昔」の感覚がある。つまり、人々は慎み深く、今よりも丁寧に日々を暮らしている、のような。
だから、そんな「昔」の人たちが今の世の中では考えられないほど空気を読まず、相手の空間や気持ちにズカズカ踏み込む姿が描かれている本作品に大きな驚きを覚えた。また、会話も現代人とは違い、議論をしたり、相手を責めるような言い方や、耳障りなことも躊躇なく口にする様子に「これが日本人か?」とさえ思った。
例えば、冒頭の「私」と「先生」が知り合いになる場面を考えてみる。もし、現代人が知らない人に毎日会えるように努め、話しかけようとしたならば即座にストーカー呼ばわりされ、警察沙汰になるのではないだろうか。男性が男性をストーカーすることだって十分にあり得る。若者がおじさんをストーカーすることもあるかもしれない。東京に戻った後も急に「先生」の家に行ったり、「先生」にとって大事にしているお墓参りに強引について行ったり、意味もなくしょっちゅう「先生」の家に行ったり。。。頭がおかしい人だと思われ、避けられるのがオチな気がする。少なくとも私だったら恐怖を覚えるはず。当時でもこんなことは一般的ではなかったにせよ、当時の人が読んで、「うわっ、こいつ(「私」)ってヤバいヤツだ」と思われなかったのではないかと推測する(だから、後世まで名著として残ったのであろう)。つまり、「私」の行動はおそらく当時の行動規範として逸脱したものではなかったのであろう。
他にも、二人の会話は財産について、「恋」について、人を信用するということについてなど、ものすごく個人的なことだったり、哲学的ともいえるようなことについて話している様子を見ると、現代人が行う会話とは比べ物にならないぐらい深い話をしているように感じる。私自身、友人との会話では、買い物の話だったり、好きな人の話だったり、はたまた信用ならない人についてだったりという個別の事柄について話をすることはあっても、一般論的な事柄について議論を戦わせる、自論を述べる、ということはなかなかした覚えがない。ましてや親子ほど年の離れた人とすることは想像もできない。
しかし、これらのことは、当時では日常であったかどうかは別にして、驚かれるようなことではなかったのだろう。となると、同じ日本人であるにもかかわらず、また、ほんの100年ちょっと前のことなのにもかかわらず、異次元の出来事のように感じる。今は亡き私の祖父母はこの時代の人たちだった。おそらく祖父母も読んだであろう本著について語り合えたらどんな会話になったであろうか。
中学生だった私がこの本を読んでどう思ったかあまり記憶にないが、おそらく「先生」の手紙の部分が強く印象に残ったはずだ。しかし、オバちゃんになると見るところが変わる。それも面白い。