踏みとどまり生きるための哲学ーミニ読書感想『21世紀の道徳』(ベンジャミン・クリッツァーさん)
京都生まれの批評家ベンジャミン・クリッツァーさんの『21世紀の道徳 学問、功利主義、ジェンダー、幸福を考える』(晶文社、2021年12月10日初版)が面白かったです。特徴は、フェミニズムやブルシットジョブ論など、現代において批判が難しい思想にも批判的検討を加えている点。それは単なる逆張りではなく、困難な時代に踏みとどまり、それでも生きるための哲学として紡がれている。「ネガティヴ・ケイパビリティ的な哲学」とも言えます。
たとえばブルシットジョブ論への批判はどのように展開されるのか。
ブルシットジョブとは人類学者デヴィッド・グレーバー氏が提唱した理論で、現代は社会運営に不可欠なエッセンシャル・ワーカーへの待遇が圧倒的に低い一方、社会的に不可欠とは言えないクソ(ブルシット)な仕事が高待遇を得ている、との内容です。
しかし著者は、仕事のクソさや理不尽さを「外部」に求めるこの考え方で、そのクソさを本当に説明できているのかと問います。
私はこの指摘をとても冷静でまっとうなものだと受け止めました。
もちろん、この主張自体が新自由主義的だとの批判も可能です。体制擁護だと。そもそもブルシットジョブ論は、個人の問題に還元されがちな働き方や待遇の問題を「社会化」するための思考ツールではないかと反論も可能でしょう。
でも、そういった概念上の批判や反論は可能でも、労働者の実感として、「労働の虚しさ」は自身の「内側」から発生していることは事実なのです。そしてそれは、いくらブルシットジョブ論で「すっきり」しても、拭い去ることはできずにそこにあるものなのです。
本書はそうした「実感に根ざした哲学」だとも言えます。
もちろんかといって、ブルシットジョブ論を否定したところで光明が開けるわけではない。でも少なくとも、ブルシットジョブ論に傾倒し、流されることは防がれる。本書の思想はそんなアンカー(錨)の役割を果たします。
アンカーはなぜ必要か。それは結局、何らかの理論、思想に流されたところで、内側にある実感は消えないからです。苦しいままなのです。
苦しくても生きるためには、本書にあるような実感に踏みとどまる思考が必要だと思います。流されることを期待するかのような情報の奔流が荒れ狂う現代においては、特に必要なはずです。