見出し画像

偶然を引き受けると人生は少し動き出すかもしれないーミニ読書感想「この道の先に、いつもの赤毛」(アン・タイラーさん)

アン・タイラーさんの小説「この道の先に、いつもの赤毛」(早川書房、小川高義さん訳)が胸に沁みた。じんわり温かいスープのような小説。街の片隅でパソコン関係の便利屋として気ままに暮らす独身男性が、ある日「あなたの子どもかもしれない」と訴える青年の訪問を受けるという物語。偶然や、予定外の出来事を拒絶せず、受け止め、引き受けた時、人生はほんの少し動き出すかもしれない。そんな、ささやかで優しいメッセージが伝わってくる作品だった。


手に取るきっかけは、装丁になんとも言えない味を感じたこと。水性絵の具で書いたような淡いイラストが、心を温めてくれる物語を想像させた。

タイトルの「この道の先に、いつもの赤毛」は、実は人物ではなく消火栓を指している(物語上重要なネタバレではないので安心してほしい)。朝イチのランニングが趣味の主人公が、いつもある場所に見える消火栓を赤毛の人と勘違いしてしまうエピソードから取られている。

このエピソードを聞くだけでもクスリとする。こういう「どうでもいい話」が好きだったり、忙しい日々の中でそういう話こそたくさん聞きたいんだという人はぜひ本書を手に取ってほしい。

物語は「自分の息子かもしれない」と名乗る青年との出会いが鍵になるけど、それほど劇的には展開しないのもミソ。決してドラマチックにはしないし、だからこそ説教臭くない。だから安心して、物語に身を委ねられる。海でなく、ひとけがないプールに、身を浮かべてプカプカ浮かんでいるような気分になる。

主人公の男性は40代。人生はルーティーン通りで、大きな不満はない。だけどちょっぴり、うまくいかないこともあるし、さみしいこともある。胸を張れるようで張れないような、そんな微妙な気持ちを著者はみごとに掬い取っている。とはいえ繰り返しになるけど、説教臭くはないし、主人公に「あるべき生き方」を強制し矯正していくような展開にはしない。

最大のポイントは、独身ならではのリズミカルで秩序だった暮らしに起きたアクシデント(息子を名乗る青年の登場)を、主人公が意外にもすんなり受け入れたことだ。それを跳ね除けることもできた。でも青年を家に入れ、コーヒーを出して語り合ったことから、人生はちょっと思わぬ形になる。

それは別に、「人生がいい方向に変わる」とはまた違う。結末まで読むと、主人公は青年に会わなくてもまあよかったのかもと思える。だけど、たぶん主人公が人生の最期を迎えた時、青年との出会いを思い出すんだろうな、とは思う。

そういう偶然やトラブルが、本書を読んだ後では、それほど嫌なものでもないのかもな、と思える。

次におすすめの本は

本書のように日常を丁寧に描いた物語が読みたいとなれば、長嶋有さんの「ルーティーンズ」(講談社)がおすすめです。2020年春、あの大変だった時期の3人家族の日々を綴るエッセイのような小説。


感想はこちらです。


エッセイでは、スズキナオさんの「深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと」(スタンド・ブックス)もおすすめ。タイトル通り、ちょっとしたことを深めると面白いことがたくさんあると教えてくれる。


感想はこちらです。

いいなと思ったら応援しよう!

読書熊
万が一いただけたサポートは、本や本屋さんの収益に回るように活用したいと思います。

この記事が参加している募集