哲学者の思考の断片ーミニ読書感想『新編 普通をだれも教えてくれない』(鷲田清一さん)
哲学者・鷲田清一さんの『新編 普通をだれも教えてくれない』(ちくま学芸文庫、2010年2月10日初版発行)を面白く読みました。90年代、00年代に哲学者が世界をどう見ていたか。思考の断片に触れ、メタファーの使い方を味わうことができます。
タイトルに惹かれて手に取りましたが、一冊まるまる普通を考える本というよりは、まさに散文、エッセーの詰め合わせでした。京都在住の著者にとって90年代といえばやはり、阪神大震災と神戸連続児童殺傷事件だったようで、それらを巡ってぐるぐると、思考を巡らしていく。
印象に残ったのは『街の陰り、街の深み』1998春という文章。神戸の事件がニュータウンで発生したことを受け、新興住宅の陥穽を考える。
身を潜める場所がないと、息苦しくなる。それは街もそうだし、家庭も、人生もそうだよなと思う。
この文章に引き付けて「普通」を考えると、普通が強くなりすぎると、生きづらい人が深呼吸する吹きだまりが消えていってしまう。普通を疑い、弾力化する試みは、意識して続けていきたい。
このことは、著者は繰り返し語っていることでもある。『息つまる〝快適な街〟』1997秋という別の文章でも、著者はこう指摘していました。
エッセイ集というのは、著者が違う場所で、同じことを考えていることを知ることができるのがなんだか楽しい。
あとは、「サナギ(蛹)」のメタファーが胸に残りました。これも、複数のエッセイで使われていた。
ここでいうと、「普通」というのは「極端」が確固たるものである時、柔軟で伸びやかになりうる。固いサナギがなければ、不安定な本体(成虫に移行する幼虫)は思う存分、ドロドロにはなれない。
普通を固くするのではなく、極端を固くし、普通を支える。そういう発想もあるのだな。
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