光ある道でなくともーミニ読書感想『ラウリ・クースクを探して』(宮内悠介さん)
宮内悠介さんの小説『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版、2023年8月30日初版発行)が最高の友情小説でした。ブラザー&シスターフッド。ソ連崩壊で揺れ動くエストニアを舞台にした本作。革命を主導する英雄ではなく、その革命に翻弄される「無名の人」を描いていて、同じく無名の人である読み手の私たちの胸を深く打ちます。
本書の魅力は、書き出しの1ページ目のこんな文章ににじんでいます。
表題の通り、本作はラウリ・クースクという動乱期のエストニアを生きた1人の男性の足跡を辿る「わたし」の物語。では、本作の中核をなすラウリという人物は何をなしたのか?「何もなさなかった」と主人公は言うのです。
何もなさなかった人物の伝記。矛盾しています。しかし、「無名の伝記」とは小説、物語でしか語り得ないものだとも言えます。物語の極地であると。
無名の伝記は、「わたしたちの伝記」であるとも言えます。わたしたちのほとんどは、何もなさないし、歴史に位置付けられないし、役回りも果たさない。そんな人間の何を語り得るのか、作者は一つの形を提示してくれるわけです。これは、わたしたちの謎解きである。
何もなさなかった人。何もなせなかった人。それは、ラウリという主人公が追いかける人物だけではない。ラウリの半生を振り返っていくと、そこにはさらに多くの無名の人が浮かぶ。そして、そうした無名の人こそが、ラウリの人生を導く。
たとえば、ラウリが幼少期、孤立する日々の中でも寄るべにしていた教会がある。そこの神父は孤独なラウリが教会で過ごすことを許し、干渉もせず近くにいる。実は、この神父も過去に歴史に翻弄され、その結果何者にもなれなかった、打ち捨てられた過去を持っていた。
そんな神父が、ラウリにこんな言葉を授ける。
何もなさなかった人には、光は語れない。神父が第一に言いたいのはもちろん、ソ連の元で硬直的な社会となっているエストニアに希望を見出すことは難しいと言っているわけですが、裏には厳しい人生を送ってきた神父の率直な思いが感じられます。光ある道は、遠い。誰もが光ある道を歩けるわけでない。
それでも、と神父は言う。まっすぐ生きてくれ。そして、したたかに生きてくれ。
「まっすぐ、したたかに」とは、よく考えれば矛盾しています。まっすぐ生きれば、それは公明正大な人生。だけど神父は同時にしたたかという。したたかとは、世の中の建前や正義と折り合いをつけ、かいくぐるような生き方ではないのか。
でも、これは神父なりの人生訓なのではないか。まっすぐ生きれば、折れてしまうかもしれない。したたかに生きれば、大切なものを失ってしまうかもしれない。その間を、探るべきである、と。
人生が光ある道でなくても。まっすぐ、したたかに生きろ。生きてみせろ。
これは、エールというには硬質な、ある種、過酷なアドバイスかもしれない。でも、何もなしえなかった人の、真摯な助言である。
本作は、こんな言葉にあふれています。何もなしえないことは、人生が空っぽであることを意味しない。何もなしえない中にあるもの。その水晶のような輝きに、目を向けるきっかけをくれる物語でした。