共鳴する痛みーミニ読書感想『それで君の声はどこにあるんだ?』(榎本空さん)
榎本空さんの『それで君の声はどこにあるんだ?』(岩波書店、2022年5月10日初版発行)が胸に残りました。キリスト教者の著者が、米国・ニューヨークの片隅にある神学校で「黒人神学」を学ぶ話。自分たちを抑圧する白人の神学とは異なる、自分たちの声を探った黒人神学。その切実さが胸に残ったのでした。
印象に残った文章をまず挙げます。
奴隷として異国の地に連れ出され、およそ400年間抑圧の歴史を生き抜いてきた米国の黒人たち。ブラック・ライブズ・マター運動のきっかけの事件のように、「息が出来ない」と訴えても、白人の警察官が首を絞めるのをやめてくれない。それが「あらゆる死の恐怖」の一つです。
そんな恐怖と苦痛の中にあって、生きること自体が抵抗であると著者は言う。そして、奇跡だと。
この実感は、発達障害の疑われる子を育てる親として、障害者の家族として響きました。
生産性の尺度で測られれば、我が子はもしかしたら「無価値」と断罪されるかもしれない。そういう差別に晒されるかもしれない。でも私は、この子に生きてほしい。何を為すことが不可能だとしても、それでも「ともかく生き、生き延び」てほしい。
黒人神学と障害(障害者家族)。私自身が当事者でないことを差し置いて言いますが、共鳴を感じたのです。
もう一つ。
あるゴスペルで、歌の最後がグローリー、ハレルヤとなっている。なぜこんなにも苦痛に満ちた歩みを送ってきたのに、喜びを歌うのか?
それは、奪われることばかりだとしても、奪えない喜びがあるから。生み出すものが、消費するものより少なければ「社会のお荷物」かのように言われる高度資本主義の時間とは、異なる時間。それが黒人神学者の語る「私たちの時間」です。
救われました。ひとことで言えば、救われました。
障害と共に生きるとは、一般的な「勝ち負け」で言えば負けに分類することを多く経験するかもしれない。それでもそこには、奪われない喜びが存在し得る。そう教えてもらえた気がするのです。
私は、子の障害という「扉」を通じて、黒人神学と共鳴した。「わたしの声」を探るとは、他者と共鳴する痛みを自分自身に見出すことなのでしょう。
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