障害と共に生きる中で生まれる「年輪」ーミニ読書感想『記憶する体』(伊藤亜紗さん)
中途失明者や、若年性認知症患者、事故で身体の一部を失った幻肢痛経験者などにインタビューした伊藤亜紗さんの『記憶する体』(2019年9月30日初版発行、春秋社)が学びになりました。それぞれの方に、それぞれの「ローカル・ルール」がある。身体に特有なありようはなぜ生まれるのか、考えさせられる本でした。
二分脊椎症という生まれつきの障害で、右脚の感覚がない方の言葉が印象に残りました。その方は、その感覚をこんな風に語る。
右脚さん、というまるで別存在のような感覚。「彼」に対して、遠慮があるような、だけれども切り捨てられないような感覚。著者は、この振る舞いをこう分析します。
両脚が同じように動く身体を持つ人の感覚からすれば、動かない脚はどんな役に立つのかと思う。けれども、「それでも付き合っていく」という独特の距離感が、障害者にはあるのではないか。役に立たないから切り捨てる、とは違うありよう。
ままならない身体を生きる。それは、健常者にとっても無縁の姿勢ではないよな、と考え方を転換するきっかけになります。たとえば、ルックスや性格。身体が定型・健常であっても、ままならないことはたくさんある。
こうした数々のエピソードに触れた上で、最後の著者の言葉が沁みてくる。
障害は、その人の全てではない。そうではなくて、障害と「共にある」という姿勢、その積み重ねの中で、「唯一無二の代えのきかない体」が立ち現れてくる。長年乗りこなしてきたマイカーや自転車のようなものかもしれない。
人を人たらしめるのは、そんな「年輪」なのではないか。誰もが、その人の年輪を重ねている。障害があってよかったとか、ない方がいいとか、そうではなくて、とにもかくにも障害と共に生きたその人の軌跡は、特別なありようを生む。
なんだかそれは、豊かな考え方だと感じたのです。