戦争責任を引き受けるための思考法ーミニ読書感想「われわれの戦争責任について」(カール・ヤスパース氏)
ドイツの哲学者カール・ヤスパース氏著「われわれの戦争責任について」(ちくま学芸文庫)が勉強になった。1945年頃の講義録をまとめ直した小論文。第二次対戦後の戦争責任を、ドイツ人としてどう考えるべきかを説いている。書店でウクライナ情勢の特集コーナーに収容されていた。たしかに、目下の戦争を考える視点になる。これは、人が戦争責任を「引き受ける」ための思考法をまとめてくれている。
解説によると、ヤスパース氏のパートナーはユダヤ系で、そのため戦時中はナチスと距離を置いていた。しかし驚くことに、ヤスパース氏は戦後、率先して「敗戦国民」としての責任があることを認めた。
普通は逆だ。戦時中はナチスを支持したり、消極的にでも体制を支えたりし、戦後は「逆らえなかった」「本当は反対だった」と主張してしかるべきだ。それがもっとも、責任を回避する手立てだから。
普通とは逆をいく、倫理と誠実さを備えたヤスパース氏は本書で、あらゆる観点から検討の末、戦争責任を負うことは避けられないということを示す。戦争責任を①刑事的責任②政治的責任③道徳的責任④形而学上の責任と四つに分類、構造化してみせるが、これも責任回避のためではなく、誰もがいずれかの責任を負うことを示すためのものだった。
また「他国にも責任があるのではないか」「歴史にも責任があるのではないか」というさまざまな逃げ道も検証し、「たしかにそう考えることは可能だが、われわれは責任を引き受けていくべきなのだ」と鼓舞する。徹底的に、責任を背負うために論を展開する。
目下のウクライナ情勢に引きつけると、以下の3点の教訓を引き出すことができると思う。
まず、第二次対戦のドイツと同様に、侵略戦争に打って出たロシアの戦争責任は絶対に回避できない。これはドイツ国民のヤスパース氏が血を流しながら検討し、避けられない、避けるべきではない論理を確立している。
一方で2点目に、ヤスパース氏が戦争責任の根拠の一つとして「敗戦したこと」を挙げている点には留意が必要だ。そもそも本書が出される背景としても、「敗戦したからドイツはこんな目に遭っているが、連合国側にも責任を感じるべき点があるのではないか」という鬱屈があったことは間違いない。つまりウクライナ情勢で言えば、停戦交渉がまとまればよいのだが、仮にロシアが「戦勝国」の立ち位置に立つと、「責任は敗戦国にあり、我々は負わない」というねじれた主張が起きかねない。
しかしここで1点目の学びに立ち返るべきだ。侵略戦争を始めた側に責任があることは絶対だということ。もしもロシアがねじれた主張をすれば、それには断固反対することが必要になる。
そして3点目は、責任とは「引き受ける」ことが可能だということ。ヤスパース氏は、鬱屈を抱えたり、自分も被害者だと感じたりする自国民に向けて本書を書いているように感じる。そして、精神的な改革、この先を歩みを高みにむけていくためにも、「われわれは戦争責任を引き受けていくべきだ」と説いている。
責任が「ある・ない」という議論は、「なければ責任を負う必要がないし、負いたくない」という正直な心情を内包する。しかし、この二元論を脱して、ある種率先して、責任を引き受けにいく態度が可能なのだ。
今回の戦争当事国にはなっていない日本として、あえて責任を引き受けにいく姿勢は学ぶべきがおおい。ウクライナ情勢に責任があるなしという議論を超えて、市民はどんな責任を引き受けていけるか。今後も考え続けるべき課題だと思う。
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