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「聞けてよかった」が不可欠ーミニ読書感想『死にたいって誰かに話したかった』(南綾子さん)
南綾子さんの『死にたいって誰かに話したかった』(双葉文庫、2023年1月15日初版発行)が、かなりの名作でした。タイトルにギョッとするかもしれませんが、この作品は奥深く力強い。生きづらさと、話すこと・聞くことについての物語です。
それぞれの事情で生きづらさを抱える主人公たちが、ひょんなことから「生きづらさを克服しようの会」(通称生きづら会)を結成するというのがあらすじ。最初は、何をやってもうまく行かないアラサー男女の2人が、世間一般への鬱憤を吐き出すとも言えない会合だったのが、トラブルを抱えた医師の参加で「自分のことを、言いっぱなし・聞きっぱなしにする会」に変化していく。これは、アルコール依存患者などの当事者会で取られているミーティング手法だと言います。
ポイントは、①主語は「男」「女」「非モテ」などの大きなものではなく、自分自身とすること②聞く方は批判や助言はせず、黙って聞くこと。
すると、主人公たちには少しずつ少しずつ変化が訪れる。もちろん「悩みを打ち明けあったら人生が好転した!」のように教訓めいた話ではない。著者はそうした絵に描いた展開を巧みに避ける。
物語最終盤のこんな台詞が印象に残ります。
でも、君も同じ経験をしてたとわかって、俺はほっとしたけどね。話せてよかったし、聞けてよかったよ
話せてよかったし、聞けてよかった。話せてよかっただけじゃなくて、その後にすぐ「聞けてよかった」が続くのが、大事なところだなと感じます。
話すだけであれば、当事者会の手法を取り入れる前の生きづら会も話していたわけです。しかし、その話は、自分ではなく主語の大きな一般論で、きつい言い方をしたら「その人でなくても話せる話」になっていた。つまり、話しているようで話していなかった。
そして、相手は聞いてもいなかった。話に対して、別の話を返すことは、一見するとラリーではある。でも本当は、話を黙って静かに聞くことが、先に来なくてはならない。話す方はきっとそれを望んでいる。だからこそ、「聞けてよかった」という言葉は話す側に重たく響く。
これは最近読んだフェミニズム本『学ぶことは、とびこえること』でもちょうど同じことが書かれていた。聞くためにはまず、黙らなくてはいけない。
わたしの授業では、学生たちに短い文章を書いてもらって、それを声に出して読んでもらうということをしている。誰もが自分の答えを聞いてもらうチャンスをもち、またお互いに自分の話を中断して、他人の話に耳を傾ける機会をもつこともできる。文字通り集中してお互いの声に耳を傾けるという行為は、わたしたちがともに学ぶ能力を強化するものだ。たとえ二度と発言の機会をもてなかったとしても、その学生の存在を、だれもが忘れはしない。
話し手よりも、聞き手が足りない。書き手よりも、読み手が足りない。日常を思い返してみても、聞いてもらう機会は貴重で、それが少ないことのフラストレーションは、たしかに大きい。
本書が伝えてくれる大切なことはもう一つ、聞く人は別に、家族や友達じゃなくてもいいんじゃない?ということでした。
わたしたちはなんだろう。砂にまみれて特大わらび餅みたいになっている薫を見て大笑いしながら、奈月はまたそんなことを思う。
友達なのか? なんだかそれは違う。もちろん恋人でもない。まして家族でもない。けれど、悲しいことやつらいこと、どうでもいいこと、いろんな話を聞いてもらえる。
生きづら会を結成したメンバーはみんな生きづらさを抱えていて、だからこそ繋がりあえた。積極的に友達になりたかったわけではないし、もちろん家族ではない。でも「ちゃんと聞く」ことでリンクする。リンクできている。
本書を読んでいて、ASD(自閉スペクトラム症)を指摘される我が子も、いつか生きづらさを感じるのだろうか?と少し負担になりました。でも同時に、家族でなくても、友達でなくても、聞き合える関係は構築可能なのだと勇気をもらいました。
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