『君たちはどう生きるか』を読んで(2/2回目)
前回の投稿に引き続き、吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』の備忘録を残しておく。
※日にちが空いてしまったのは、ワンピースを1巻から読み返していたからだ。ニカが気になって気になって気になってさ。
そもそも、この本を読むに至ったのは、池上彰が書籍について解説する本を図書館で見かけたところに端を発する。
なんで解説してるんだ、という疑問を解消するため、隣にあったこの本を軽く立ち読みしていたのだ。
ただ、この時は別の本を借りて帰宅するのだが(他にも読みたい本がたくさんあった)、なんと全く関係ないと思っていた別の本で『君たちはどう生きるか』が引用されていたのだ。
”これは、読まなければ。”
ちなみに、全く関係のない別の本というのが、ブレイディみかこ著『他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ』だ。
彼女はカトリックらしいし、仏教の幼稚園に通っていた私にも神の気まぐれでお導きがあったのかもしれない。と、全く理論が破綻していることは、この際どうでもいい。
さて。
前回は書籍前半に登場した忘れたくない3箇所を記録として残している。
今回は書籍後半に登場した箇所を記録している。
【4つ目】
ここ数年、”自粛警察”や”マスク警察”というパワーワードがメディアをにぎわせていた。
この文章を読んだとき、こうした人の心理は時代を超えた普遍的なことなのだな、とストンと自分の中に入ってくれた。
非常事態時は、平常ときには隠れてしまっている人間の根っこの部分が露出してしまうものなのかもしれない。
【5つ目】
これはなかなか胸の痛い言葉だ。
”道義”という言葉を調べると『人のふみ行うべき正しい道。道理。』と出てくる。
ちなみに、正しいを調べると下記のように出てくる。『1.道理や法にかなって、誤りが無い。2.きちんとしている。整っている。』
双方の意味の中に”道理”という言葉が含まれる。道理とは『物事の筋道』のことである。
日本語としての”正しさ”は、非常にあやふやなのだ。
だからこそ、個人の道徳心に任せられているものでもある。
さて。私たちはこの道徳心を養う努力をしているだろうか。
”正しき道義に従って行動する能力”と記されている以上、能力は磨き続けなければ、鈍ってしまうし、成長もしない。
ただ、一方で、養えば伸びるのだ。
立ち直りたい現状があって、もがいているならば、自身の道徳心を存分に育てていけば、いいんじゃないかと思う。
【6つ目】
私が手にした書籍はは1937年に発行されてから2度、用語などの手直しが入ったのちに発行されたバージョンだ。そして発行された当初の書籍を読んでいないので、どこがどの程度変更されたのかは分からない。
ただ、1つ、この部分は、戦争を経験された方の言葉として、重く、受け止めなければならないと思う。
そして、なぜかいちばん難しく、未だかつて、すべての人がお互いに良い友だちであったことはない。
その事実が、私にはとても悲しく、悔しく、もどかしい。
だからこそ、私はエンパシーは必要派である。
※エンパシーについては、ブレイディみかこさんの書籍の感想文を読んでください。
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