仏教か、仏教以外か
世の中には2種類の悟りしかない。仏教か、仏教以外か。
今更かもしれませんが、著者朗読シリーズ第二弾としてローランドさんの『俺か、俺以外か。ローランドという生き方』を聞いてみたのでした。
テレビをあまり見ないので、正月の特番かなんかで見たサッカー上手い金髪の兄ちゃんという知識しかなかったのですが…
聞いてみると声も含めてしっかりブランディングしていて偉いなという印象を持ちました。
今回は久々に「悟り」の話をします。アカウント名になっていることも忘れて、全然悟りの話をしていなかったので。
ただ仕方のない部分はあるのです。仏教では「悟り」そのものの内容は言語を超えていて表現できない、とされています。これは私もそう思います。体験なので「そのもの」はいくら言葉で説明しても意味がありません。だからそれを体験できる方法についての話に終始することになります。
しかし、一方で他の教え、特に新興のスピリチュアルな教えを説く人々は自らの経験をかなりあけすけに語ります。それそのものは別に良くも悪くもないのですが、それを読んだ人が変に憧れてしまうのは問題です。そこでこのnoteではどちらかというとそういう特別な経験を相対化するような知識をお伝えしています。
神秘体験にも、そこで得られたインスピレーションにも、それ自体にはそれほど意味はありません。体験し学習されるという過程とその結果が重要で、それをどのように概念で表現するかは本質的ではありません。それはいくら強調してもしすぎるということはありません。
例えば仏教の思想の核心を「空」だと強く思い込んでいる人がいます。その人が自分で何か体験した結果を仮に「空」と表現するのであれば良いのですが、そうではなく概念的に捉え理解しているのであれば、そしてその理解によってその人の認識が根本から変化しないならば、その人の「空」は常に完全に間違っています。
同様の理由で般若心経なども、それそのものには何の意味もありません。短いお経を日本人はやたらめったらありがたがっていますが、内容はないのです。内容がないものに、何か意味を込めたり受け取ってしまうというのは、仏教とは異なる信仰様式です。
上では大乗仏教的な概念を挙げましたがそれは無常であっても「苦」であっても無我でも同じです。世の中のほぼ100%の人が間違った表現をしているのです。お坊さんも含め全員です。
合っている表現ができるのはごく少数の本当にしっかりした修行をしたお坊さんだけです。テーラワーダのお坊さんでも、ダメな人はダメですし、そういう人の説法は聞く人が聞けばわかるのです。ただしわからない人は経典の言葉を引用しているというだけで騙されてしまいます。形だけは立派にはできるのです。経典を覚えていれば。そういう意味では日本のお坊さんより厄介かもしれません。
テーラワーダのお坊さんでもそんな状況ですから、仏教的に正しい悟りを語っている人はいません。本当にいません。
私が読んでどんな時でも表現を間違わない、経典のように読めるのは有名な方だとアーチャン・チャーとマハーシ・サヤドー、グナラタナ長老くらいです。仏教を知りたくて、経典以外で読みたければまずこの御三方をお勧めします。
読んでいただきありがとうございました。