禅、ヴィパッサナー、時々不二一元論③
前々回ネルケさんの坐禅体験から始まり、不二一元論との比較、そして初期仏教との比較まで進みました。前々回の最後にのせた禅とネルケさんの考える瞑想(ヴィパッサナー)と私が考えるヴィパッサナーの違いを表した図を再掲します。
ここで申し上げておきたいことが一つあります。この図に関してネルケさんの意見を批判的に取り上げてはいますが、実際ヴィパッサナーの実践を続けている人にも上の図は理解されていないということです。
私の記事では何度か触れていますが、ヴィパッサナーの実践は意識よりも「前」さらに言えば「『私』より前」を観れて初めて「ありのままに(法を)観る」ことが可能になります。そしてその段階まで実践が進む人は非常に稀です。私が現実で会ったことがあるのはお坊さんを除くと一人だけですし、ネットで探しても数人しか見つけたことがありません。ですから、こういった事実をネルケさんが知らなくても仕方ないのです。
また禅とヴィパッサナーは異なる目的を持った異なる実践体系です。ですから、禅の修行を何十年と行った僧侶だからといって、ヴィパッサナーの実践の高度な部分が理解できるわけではないのです。それはプロ野球選手だからといって、サッカー選手のトレーニング方法や目的を全て理解できるわけではないのと同じです。フィジカルトレーニングなど共通する部分はあっても、サッカーという競技の特性や細かい目的、理念は実際に長くプレイした人間でないと理解できないでしょう。
以上を踏まえた上で、さらに問題だと思うところがあります。ネルケさんの初期仏教に対する理解について引用します。
この文章のどこに問題があるでしょうか?実は教科書的にはあまり問題はないのです。そもそも教科書的な書物というのは学者が書いたものです。学者というのは実践者ではありません。そのため文献に書かれたことを文字通り概念のみで理解します。それは概念的に理解するなら最大限正しいものです。しかし実践者の観点からすると少しずれているのです。概念的には正しいが実践的には正しくない、それがややこしいのですが、問題なのです。
例えば「この身体を含む世界のあらゆる物事はたえず移り変わり、とどまることはありません(無常)」という部分。無常の説明としては正しいのです。ただ実践者はこのような形で理解しても意味がありません。「たえず移り変わり、とどまることはない」というのを実際に観察しなくてはなりません。しかも概念の領域ではなく、「私」が生成する以前の、原初的な認知過程においてです。
続く部分も同様です。「それぞれのものに実体が認められないため、「私」というものもなく、「私のもの」と主張できるものすら一つもありません(無我)」というものを概念的に理解しても何も起きません。これを観察して真理の領域で目の当たりにできるならばすぐさま「悟り」に達します。
そしてこれら無常と無我(そして「苦」)は別々のものではないのです。現に観察る意識的な現象を別々の側面から見たものに過ぎません。現象(法)自体は意識において一つです。それをどう見るかによって無常や苦、無我を実践者が主観的に見出すに過ぎません。
概念的に、教科書的に理解している人はここがわからないのです。法(ダンマ)について経験的に理解している人は、これは言われればすぐにピンとくると思います。逆にこれがわからない人は、概念的にしか仏教を理解していないことになります。
「苦」について書かれた部分も引用します。
この「苦」に関しては説明も独特だと思うのですが、「無常、無我」と「苦」を分けて考える人は学者にもいるようです。大乗仏教的な考え方なのか私にはよくわかりません。前述の通り無常や無我である現象に執着してしまうから「苦」なのではなく、現象そのものの側面の一つが「苦」なのです。当然これも現に観察できて初めて理解できるものです。
また繰り返しになってしまいますが、ネルケさんはやはり瞑想を概念的な領域でしか行っていないと考えているようです。最後の文の「思い込み」という表現はつまり思弁的、概念的領域の話である、ということです。
この考え方は最初の方で書いたように端的に間違っています。
今回はプロの禅僧であるネルケさんにめちゃくちゃダメだししてしまいました。ファンの方がいたらごめんなさい。ただ、なぜ批判的に取り上げることができたかというと、ネルケさんが明晰に言語化してくださっていたからです。普通の禅のお坊さんであればここまで正確に言葉にできないし、論点も提示できません。
今回である程度書きたかったことは書き終わったのですが、続く部分も大事な論点を含んでいるので、また引用しつつ説明していきたいと思います。
読んでいただきありがとうございました。