知識はすごいノーベルと空っぽなポッティラ
昔子供の頃に読んでいた漫画に『ピューと吹く!ジャガー』という作品がありました。その作品の中で主人公たちが楽器が学べる専門学校に見学に行くという話があったと思います(手元に本がないのでうろ覚えですが)
その時、そこに通う楽器のスペシャリストたちがまるでこれからライバルになるかのように派手に紹介されるのですが、そこはギャグ漫画なのでそれは「フリ」で、ほとんど彼らに絡むことなく話が終わります。
その楽器のスペシャリストたちの中に「知識はすごいノーベル」というキャラクターがいました。他のキャラクターは楽器演奏の天才のように紹介されるのですが、ノーベルだけは「知識がすごい」だけなのです。
そのキャラクターにインパクトがあったからか、例えばゲームをやっていて攻略本で知ったことを自信満々に披露した後に、全然うまくプレイできなかったりすると
「知識はすごいノーベルだな」と友達に揶揄されたのでした。
『真理のことば』でお馴染みのダンマパダの注釈書にこんな話が載っています。
ポッティラ長老は三蔵を覚えて、大勢の前で説法をしていました。しかしその長老は自分自身で実践せず語っていたので、ブッダは「空っぽなポッティラ」と呼んでからかっていました。
ある時その長老は「空っぽ」と呼ばれるのが嫌になり、ついに自分で実践しようと森の中に入っていきます。修行者の集団で一番の年長者に教えを請いますが「自分は教えをよく理解している」という傲慢さを見抜かれ相手にされませんでした。
次に年長なものに頼みますが相手にされません。順々に頼んでいって全員に断られたポッティラ長老は最後に子供の修行者(でも阿羅漢)に教えを請います。
その子供は謙遜して「偉い長老様、教わるのは私の方です」と教えるのを辞退しようとするのですが、ポッティラは退きません。子供は困りましたが「ではそこの水たまりに飛び込んだら教えます」と水たまりを指さします。
するとポッティラは水たまりに飛び込み、教えを請いました。方法を教わり、実践したポッティラ長老は見事悟りを開き、「空っぽ」と馬鹿にされることも無くなりました。
この話自体は「三蔵」が出てきているあたり、後世の創作であることは確実ですが、こんな話を注釈書に載せなくてはならないくらいにはポッティラみたいな人がたくさんいたんだと思います。
現代日本の仏教好きは基本的に「知識はすごいノーベル」や「空っぽなポッティラ」ばかりです。実践法を知らないのに知識ばかり難しい(そう見えるだけで内容のない)思想や哲学を並べ立て、あーでもないこーでもないと不毛な思考を巡らせているのです。
結論の出ない空理空論など仏教として意味がありません。法(ダンマ)を知り、迷い続けるなどということはあり得ないのです。迷いが残るということはそれはそもそも法ではないのですね。そんな簡単なことすらわからないのです。
でもそういう人に真正面からそういうことを言うと大層怒るんです。そう言う人にとってはそれは赤ちゃんの「おしゃぶり」のようなもので、取り上げられると機嫌が悪くなります。
おしゃぶりが手放せない人には何を言っても仕方ないのです。私も最近は赤ん坊をいじめているようで気がひけるので、そういう人は放っておくのです。
おしゃぶりを取って、水たまりに飛び込める人は…まぁいないでしょうね。なので、おしゃぶりをつけていない「大人」を探すことにしています。
読んでいただきありがとうございました。