優れた小説を読んだ時にふと心に影がさす理由。
5時。雨音で目を覚ます。ふと、心に暗い影がさす。《悪童日記》を読んだせい? 素晴らしい小説と出会って興奮しているだけなのか、ーーまさか、彼女の才能に嫉妬しているわけではあるまい。
アゴタ・クリストフの文体はこれっぽっちもインテリぶっていなくて、シンプルで、突き刺すようだ。登場人物たちの悪意あるとんでもない非行が、軽々と「生命力」として消化されてゆく。ーーこんなことが可能だとは!
はじめてヴァージニア・ウルフを読んだときも、その天才に、私は図々しくも数日間、落ち込んだものだった。彼らのあの「異才」はどこからやってくるのか。私のこの「もやもや」は何なのか。
私には何もない。私の時代には何もない。戦争も知らないし、社交界も知らないし、テロリストに遭遇したこともない。(主観一点の震災文学などは反吐がでる!)
強いていうなら父方の実家だ。今にして思えばあれは「異様」だ。父も異様である。もちろん当時の私たちにとってはそれは「日常」であったわけだけど。
異様な家庭の中で異様なことが営まれていること。そしてそれが耐え難い苦痛であればこそ、私も兄もそこに「正常」を見出だそうと必死になるのである。近所の人や教師やらが父を咎め、私たちに救いの手を差し伸べようとしたり、あるいはクラスで、親のことが原因でいじめられるたびに私は、「お父さんは正しい!」と頑なに言い張ったものだ。
父親を守るために子供が社会と敵対してゆくとは、なんともむごい構図ではないか。私はいまだこのことの当事者なのであり、主観でしか自分の過去を語れない。ーーそこなのだ。
もちろん私は小説家ではない、けれどもそんなことは関係ない。誰だって、自分の受けた苦痛を他人事として客観的に語れるようにならなければ、我々は一生「心に傷を負った被害者」のままである。
それらを完全に消化しきった優れた小説を読むとき、ふと心に影がさしてしまうのは、「ああ、やはり天才でなくては過去は乗り越えられないのかも知れない」と怖じけづいてしまっているのだろう。
しかし幸い、小説家でない私には〆切というものがない。のんびり向き合うとしよう。もっと多面的に見えるようになるはずだ。父もまた被害者である。祖父母もまた被害者なのである。誰も得などしていない。ただ「生命力」があっただけなのだーー。