(加筆修正)エッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」 第1回《ロンドン交響楽団来日公演 クラウディオ・アバド指揮 1983年》
エッセイ「クラシック演奏定点観測〜バブル期の日本クラシック演奏会」
第1回《ロンドン交響楽団来日公演 クラウディオ・アバド指揮 1983年》
※本連載の加筆修正版、今回で完結!
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加筆修正版)クラシック演奏定点観測〜バブル期クラシック演奏会
https://note.com/doiyutaka/m/m95eba8e4b1c1
このエッセイでは80年代からの海外オケ来日ラッシュから始めて、最終的には現在の日本クラシック事情を記録していく。定点観音楽批評として数十年来、オケ演奏を聴き続けたリスナーとしての耳を武器に、プロの物書きとしての文章を生かして、世間の「音楽評論家」の先生方に負けない読み物を書いていく。
この連載を元に、最終的には単行本としてまとめていく予定。
32本の記事のセット価格1000円で、このマガジン全部の記事が読めます。(各記事は基本1本100円です)
※この公演の会場だった旧・大阪フェスティバルホール。建て替え改装するため、2008年に一時閉館する前の、お別れコンサートの際に撮影
⒈ はじめに 〜 このエッセイについて
80年代〜90年代は、日本のクラシック音楽の歴史で特異な時期だったのではないかと思います。バブル期の豊富な経済力で、世界中の名だたる音楽家、音楽団体を招聘し、来日アーティストの公演が連日のように行われていました。特に欧米の有名オーケストラの来日公演は、80年代以前と以後で、根本的な相違があったのです。それはホールの問題です。
80年代以前の日本国内の音楽ホールは、欧米の主要なコンサートホールやオペラハウスとは比較にならない音響の悪さでした。せいぜい、大阪のフェスティバルホールや東京文化会館ぐらいが最高レベルだったのです。そこに80年代初め、朝日放送の肝いりで完成した日本最初のクラシック専用ホール、ザ・シンフォニーホールが登場します。以後、折良くバブル経済の上り坂に合わせるように、サントリーホールをはじめとするクラシック専用ホールが日本各地にできていきます。
専用ホールで聴くオーケストラの音は、それ以前のデッドな音響の会場での演奏体験とは根本的に違ったはずです。日本では、80年代以降はじめて、欧米の主要オケの真の音を聴くことができたといえるのではないでしょうか。
さて、筆者は、ちょうど80年代に10代だったこともあり、クラシックの演奏会に通い始めた時期が、シンフォニーホール誕生以後とほぼ重なっています。
中学から吹奏楽をやっていたせいで、高校生になると来日オケの演奏会にも行くようになりました。最初に生で聴いた海外オケはアバド指揮ロンドン交響楽団で、会場は大阪のフェスティバルホールでした。
このエッセイでは、クラシック演奏会の定点観測、と名付けて、バブル期の日本で一時、あだ花のように花開いたクラシック音楽演奏会の最盛期を、実際に体験した者として書いていきます。日本は世界のクラシック界で主要な位置を占めているように見えますが、バブル期のクラシック盛況時代を経験した自分からみると、21世紀の現在の国内オケも、海外招聘オケのレベルや企画も、衰退の一途をたどっているように思えてなりません。
日本経済悪化のタイミングとちょうど重なっているので、それも致し方ないのですが、あの夢をもう一度、という気持ちもあります。それがかなわない夢としても、あの頃の素晴らしかったクラシック盛況の時代を後世に伝えておきたいと思います。
筆者より上の世代の方々が、音楽批評と称して当時の記録を多く書き綴っていましたが、それらもどんどん忘れ去られて、今では古本屋や図書館でしか入手できないものが多くなっています。
先輩の音楽批評家より遅れて演奏会に通い始めた筆者ですが、その分、21世紀の日本クラシック事情を、リアルタイムで観察する視点も持つことができます。
このエッセイでは、80年代海外オケ来日ラッシュから始めて、最終的には現在の日本クラシック事情を記録していきます。数十年来、オケ演奏を聴き続けたリスナーとしての耳を武器に、プロの物書きとしての文章を生かして、「音楽評論家」に負けない読み物を書いていきます。
なお、この連載を元に、最終的には、単行本としてまとめていく予定ですので、応援していただけましたら光栄です。音楽本を出している版元の編集者の方々も、ぜひ注目いただきますよう、お願い申し上げます。
⒉ 第1回 《ロンドン交響楽団来日公演 クラウディオ・アバド指揮 1983年》
※この公演のチラシ。筆者所有
1983年春、ロンドン交響楽団が来日公演を行った。新たに首席指揮者となったクラウディオ・アバド(アッバード、アバードとも表記)に率いられたアジアツアーの一環だった。
このとき、筆者は高校生だったが、高額のチケットをアルバイトで稼いだ金で買い、大阪フェスティバルホールでの演奏会を聴きに行った。ちなみに、海外オケを生で聴くのはこれが初めてだった。曲目はプログラムBで、ストラヴィンスキー『火の鳥』組曲と、マーラーの交響曲第1番。
このツアーでは、83年当時のアバドのレパートリーを反映して、マーラーの交響曲第1と第5をメインに、ストラヴィンスキー『火の鳥』とラヴェル『ラ・ヴァルス』、バルトーク『中国の不思議な役人』を組み合わせている。貴重なのは、ベルリオーズ『幻想交響曲』がメイン曲に据えられたプログラムAだ。アバドの『幻想』は、こののち数年して、シカゴ交響楽団と録音されるが、当時としては、アバドのベルリオーズというのはレパートリーの中で珍しいものだった。
プログラムA(聖徳学園・川並記念講堂、東京文化会館)
バルトーク「中国の不思議な役人」
ベルリオーズ『幻想交響曲』
B (昭和女子大・人見記念講堂、フェスティバルホール)
ストラヴィンスキー「火の鳥」組曲
マーラー 交響曲第1番
C (東京文化会館)
ラヴェル「ラ・ヴァルス」
マーラー 交響曲第5番
D (福岡サンパレス)
ストラヴィンスキー「火の鳥」組曲
マーラー 交響曲第5番
※この公演のチケット。筆者は1万円のS席を購入した。
筆者が聴いたプログラムBの『火の鳥』、マーラー1番というプログラムだが、面白いことに、当初はハイドンの曲が予定されていたらしい。それが、演奏会のチラシにあるように、『火の鳥』に変更されたという。「張り切りアバードがテレックスを打ってきた」というチラシの説明文からは、この当時のアバドがいかにも若手指揮者として認識されていたことがうかがえる。
さらに、このチラシの説明で興味深いのは、「ズービン・メータを意識したマーラーはしっかり残している」という部分だ。
この当時、アバドがマーラーを録音する以前に、メータが録音したマーラーの交響曲シリーズが大いにレコード界を賑わせていたようだ。
この演奏会のプログラムには、当時売り出し中のクラシックレコードの宣伝も入っているが、そのなかに、ちゃんとメータのマーラーも並べてある。
メータは若くしてロサンゼルス・フィルの音楽監督として一世風靡した。若き日のメータとアバドは、ウィーン音楽アカデミーで指揮科の同窓生だったという。学生時代の仲間がプロ指揮者としてライバル同士となり、メータはアバドより頭一つ抜け出して世界の音楽界の寵児扱いされていた。
アバドは遅咲きの才能だったようで、ゆっくりとキャリアを重ねて、欧州の音楽界でデビューしていた。アバドが注目されたきっかけは、カラヤンの推薦でザルツブルグ音楽祭に客演する際、曲目をマーラーの交響曲第2番にしたことだった。当時、まだマーラーの交響曲はオーケストラのレパートリーに定着したとはいえず、若いアバドがいきなりマーラーをひっさげてウィーン・フィルを振るというのは、相当な冒険だった。けれど、このときの成功が、アバドの指揮者としての名を一躍高めたことは間違いない。アバドは賭けに勝ったといえる。
メータがそのマーラーの2番を録音したとき、レコード業界では「これぞ決定版!」とベタ褒めだったようだ。ところが、その後にアバドがシカゴ交響楽団と同じくマーラー2番を録音すると、たちまち、「メータ版よりアバド版の方がすごい!」という話題で盛り上がったのだ。
そのような事情もあって、特に日本のクラシックファンの間では、メータとアバドのライバル関係といったような話題が、面白おかしく語られていたのだろう。演奏会のチラシにまで、メータとのライバル関係をほのめかされて、アバド自身はどう思っていただろうか。おそらく、そんな話には興味なかっただろう。
アバドが来日のプログラムにマーラーを2曲選んだのも、メータを意識してのことだったかどうか、わからない。おそらく、そんなことでプログラムを決めないだろう。ちょうどアバドはマーラーを順々にレコーディングしている最中で、コンサートでも取り上げるのに良いタイミングだった、というだけのことかもしれない。
なお、この演奏会の時点で、最も新しいアバドのマーラー録音が第1番だった。だから演奏会に選んだのだろう。
その時点で、アバドはマーラーの交響曲を第6番まで録音済みだった。オーケストラはシカゴ交響楽団と、ウィーン・フィルを使い分けている。
この演奏会の前にロンドン交響楽団の首席指揮者に就任しているので、マーラーの録音の続きがロンドンとのものになってもおかしくなかっただろう。けれど、結果的には、アバドのマーラー・チクルスの第1期は、シカゴ響とウィーン・フィル、そしてはるか後年に、ベルリン・フィルとの8番で完成されることになる。ロンドン交響楽団とのマーラー録音は、残念ながら実現しなかった。
もっとも、録音で聴く限り、アバドはマーラーを録音するにあたって、オーケストラを慎重に選んでいるようだ。シカゴ響は、この当時すでに、ショルティとのマーラー録音で勇名を馳せていて、名実ともにベルリン・フィルと並ぶ偉大なオケの名をほしいままにしていた。アバドとのマーラー録音は、ショルティとのチクルスとはまた違った魅力的な演奏で、シカゴ響の音をアバドが欲していたのがレコードから伝わってくる。一方、ウィーン・フィルとの第3、4番も、のちの9番、10番アダージョも、これまたいかにもウィーンの響きでなければならないという必然性が感じられて、アバドのオケ選択が正しいことを感じさせる。おそらく、ロンドン響とは、レコード契約の事情がいろいろあったに違いない。それを抜きにしても、ロンドン響とのマーラーは、のちにCDで聴いたシカゴ響との同曲に比して、かなり劣るものだったことは否めない。
※公演パンフレットに、ロンドン交響楽団のパトロンであるエリザベス女王のメッセージと写真が掲載されていた。畏れ多い。
⒉ 初めて聴いた海外オーケストラの生演奏
マーラーの1番でロンドン響との演奏が劣るのは、管楽器群の実力差が歴然とわかってしまう点だ。マーラーの1番で、管楽器の技術が劣る場合、どうしてもあちこちに演奏上の傷が残る。当時のシカゴ響を生で聴いていないので、単純比較はできないが、CDで聴く限りにおいても、ロンドン響より一段レベルが上であったことは確かだろう。
実際、初めての海外オケのライブ演奏体験だったにもかかわらず、この夜の演奏では、どうしてもマーラーの演奏で、管楽器の細かいミスが気になった。さすがに、ホルンなどが大きく音を外すことはなかったが、ミスはミスだ。音の縦の線の不揃いは、指揮者に責任があるのだろうが、オケのアンサンブルにも、いささか問題があったのだろう。
それにしても、80年代当時のオケ演奏の技術面では、たとえロンドン響のレベルでも、細かいミスを連発するのは普通だったのかもしれない、そう考えると、現代のオケがいかに技術的に向上したのかがよくわかる。
そうはいっても、この夜のマーラーの1番は、筆者にとって、決定的な体験だった。なんといっても、それまで何度か、同じフェスティバルホールで聴いたことのあった大阪フィルの演奏とは、オケの「鳴り」が違った。アンサンブルのスピード感や精緻さも、段違いだった。海外の有名オケの音がいかにものすごいか、体験して初めてわかることだった。この夜以来、筆者は、海外オケの演奏会を聴くチャンスを逃さないよう、コンサート情報を常にチェックし、アルバイトで貯めたお金を惜しげもなくコンサート通いに費やすようになった。この当時の高校生には、海外オケのチケット代は本当に高額で、とにかく安い席を並んで買うしか、コンサートに通う手はなかったのだ。
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