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ここまでわかった犬たちの内なる世界 #26犬の攻撃性②〜本物か偽物か〈後編〉

☞文字数 約10,000字

前回のコラムでは、「攻撃性」は元来、 同種の動物間の争いについて使われるものであり、 多くの場合が儀式化されているというお話をしました。


今回まず最初に、皆さんと共有しておきたいのは、次のことです。

✅犬の攻撃性は複雑な問題であり、それぞれの犬の背景、経験、環境を徹底的に理解する必要がある。


犬の攻撃性は感情表現であり、正常も異常もある

犬の攻撃性とは 一体どのようなものなのか、 
Dog Aggression
をググってみると様々なサイトで様々な定義がされています。

いずれのサイトも、犬の攻撃性をローレンツが定義したような”同種間の争い”に限定して述べているわけでは、もちろんありません。 攻撃性を示す対象には、人間や異種動物も含まれます。

あ、これ、わかりやすくコンパクトにまとめてあるな、と目を引いたのが、次の定義です(一部省略して訳出。太字は筆者による)。

攻撃性は、動物の正常な行動の一部分です。人々はしばしば、犬の攻撃的な行動が咬みつきの場合にのみ問題であると考えています。しかし、攻撃性には、うなり声、歯のむき出し、空咬みが含まれます
攻撃性は感情の表れであり、犬が様々な意図を伝えるために使用します。

RSPCA(英国動物虐待防止協会) Aggression in dogs

ただし、これを鵜呑みにするのはやめましょう。攻撃性は動物の正常な行動であるというのは、 真実の片面です。 攻撃性は、「異常な」行動の表現であるというもうひとつの片面もあるのです。

「正常な」犬の攻撃性:うなり声や 唇を持ち上げるなどの警告 から始まり、相手の反応を待ちます。相手が立ち去ると(脅威はないと思えば)うなったり吠えたりするのをやめます。 相手が立ち去らなければ、場合によっては咬みつきます。ところが異常な行動を示す犬は、途中のプロセスを省略 するか順序を変更します。 例えば、警告なしに咬みつくのです。

適切な正常な行動と不適切な異常な行動を区別することが必要です。
では、次のような状況ではどう考えるべきでしょう。

耳炎を患っているイヌが飼い主を咬みます。この攻撃的な出来事を解釈する際には、状況 (痛みを伴う状態、防御的な攻撃性) を考慮します。痛みによる攻撃は、適切で 正常な可能性があります。イヌはさらなる痛みから身を守り、身体的な接触を望んでいないことを伝えようとしたのかもしれません。イヌが、 イヌと交流したり脅したりしていない人に駆け寄ってきて咬みついた場合、その攻撃的な行動は適切ではなく「 異常」と言うべきものです。

攻撃性の定義の中には、「 あの、怖いんですけど」という脅威の表示も含まれます。したがって、攻撃性には、微妙な体勢や表情から爆発的な攻撃まで、さまざまな行動が現れます。

この2頭は4歳の雄の兄弟犬。唇をめくりあげ歯を剥きだして攻撃性を示しているが、 咬みつきはない

ある死

再び八ヶ岳のフィールドに話を戻します。

前回お話したマロンの一件が起きたその冬の終りに、さらなる衝撃が走りました。
死亡事故が起こったのです。

ある日の朝、雪の中でその3歳の雄のゴールデンレトリーバーを発見した「牧場」スタッフによると、 見つけたときは「すでに虫の息」でした。応急措置が施されたものの、手遅れでした。 

屋内に担ぎ込まれたそのイヌの憔悴しょうすいし切った姿は、争いに巻き込まれたことを物語っていました。しかしその現場は誰も見ていないのです。 集団で襲うような事態が起これば、吠え声等の気配で、気づくはずなのですが……

むくろになってしまったゴールデンレトリーバーの日常は、ユーモアに満ちていて、 筆者の目には、争いを好まない平和主義者として写りました。
ただ、一方で、 群れと距離を置いた単独行動も多く、”孤高なる個人主義者” という印象もちらつくイヌでした。 もしかすると、この性質が災いしたのかもしれません。

この愛すべきゴールデンレトリーバーの急逝は、 筆者にとって途轍 とてつもなくショックな出来事でした。

誤解がないように言っておきますが、マロンの1件と、 この死亡事故は、いずれも例外的な事例です。そして、当事者たちは(攻撃した側も、された側も)、 聡明で社会性のあるイヌです。

解明が難しいのは、同種内で生じる本当の攻撃性です

これは、『 犬の行動学』(中公文庫)の著者で、 ドイツでイヌの研究と繁殖に携わったエーベルハルト・トルムラーの言葉です。

『犬の行動学』では、 犬の攻撃性についてかなりの紙幅をとっています。

「 何人かの繁殖家は、明らかな動機が認められないのに、突然すべての犬が1匹を攻撃し、助ける余裕のないまま死亡させることがある、と述べています。これは、ある犬の犯した、我々人間にはわからない過ちに対して、通常なら軽微な制裁を与えるだけで済むところが、死に至る攻撃となったものでしょう。攻撃の衝動が十分なけ口のないまま蓄積した結果であることは確実です。」( 渡辺格訳)

さらに続けて、興味深い記述をしています。

「 家畜化の過程において、犬のある特定の性質を残すために、生来持っている一連の本能を尊重しないで淘汰をおこない、攻撃性を抑制する機能が退化するケースが多数見られるのです。このような犬の場合、抑制が減ずる結果、攻撃的興奮の敷居が低くなり、ほんのわずかな動機ですべての攻撃性が目覚めてしまうのです。」

トルムラーの施設では、6年間で数件の死亡事故が起こったと報告しています(ほとんどはディンゴが引き起こしている)。 トルムラーは、これらの事件について、 やはり「 例外だ」 と言っています。

囲い地で飼育されているディンゴ。2010年にドイツのトルムラーの研究施設を訪問した際に撮影した。

※ディンゴについては、 こちらのコラムの〈ディンゴのこと〉の項を参照してください。

ゴールデンレトリーバーの攻撃性には、遺伝的背景があるらしい
ゴールデンレトリーバーといえば、 温厚な家庭犬のイメージが定着しているのではないかと思います。 例えば、オランダのゴールデンレトリーバークラブの犬種標準では「性格がよく、友好的で、自信がある」とされています(2005)。
ところが、意外な報告がされているのです。あまり知られていないことだと思いますが、1990年代に非常に「攻撃的な」ゴールデンレトリバーの存在が相次いで報告され、この攻撃性には遺伝的背景があることを示唆する科学論文が発表されています。 研究によれば、攻撃的な行動が特定の家族グループでより頻繁に発生するようです。

※90年代にオランダで行われた研究についての論文をコラム末尾の「参考文献」に示してあります。

攻撃性は遺伝子にプログラムされた生得的な特性か

皆さんの中には、攻撃性が遺伝的なものなのか、 そこに関心を持たれている方もいらっしゃることでしょう。

性質や行動特性は、遺伝によるものか、それとも環境によるものか、
古くから議論 されてきたテーマですが、これにはすでに決着がついています。

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