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無限に翻弄されて
歴史の中の「あれれれれ……」感1――兄弟仁義の終焉
「あれれれれ……なんだか調子悪いんですけど……アウェイ感ハンパないんですけど」という局面を、人は多かれ少なかれ感受せざるを得ないものだ。そのような局面は、歴史の過渡期において、感受されるが、中世のイタリアにおいても、幾人かの人間によって、ため息がつかれていた。例えば、シェークスピアの『ヴェニスの商人』に登場するアントーニオは、言い知れぬ憂鬱感につきまとわれている。
まったく、どういうわけか、おれは憂鬱なのだ。厭になる。おかげできみたちだって厭だろう。だがどうしてこんなものにとりつかれ、背負いこんでしまったのか、こいつが何でできており、どこから生まれてきたのか、見当もつかない。とにかくおれはこの憂鬱のために白痴同然となり、自分がなにものであるかさえわかりかねる始末だ。
アントーニオは、相当にへこんでおり、しかもかなりの重症のようだ。人目を引かずにはおかない、アントーニオのこの憂鬱に対しては、様々な解釈が成り立つであろうが、経済学者の岩井克人は、経済の歴史の観点から、非常に面白い視点を打ち出した。このメランコリーの起源には貨幣経済の破壊力がある、というのだ。どういうことか。
岩井克人は、『ヴェニスの商人』の世界が3つのグループから成り立っている、という。すなわち、「兄弟的連帯で結ばれているヴェニスのキリスト教徒たち」「ヴェニスという共同体の内部における外部としてのユダヤ人たち」そして「異邦の女たち」という3つのグループである。
そしてアントーニオは最初の「兄弟的連帯で結ばれているヴェニスのキリスト教徒たち」のグループに属している。「兄弟的連帯」に重きを置くアントーニオという男は、古代ローマ人の名誉を一身に備えている人間、いわば「十六世紀のイタリアにおける古代ローマの生き残り」なのである。60年代の東映映画ファンであれば、明治を舞台にした任侠映画における、政府と結託した近代ヤクザと対立する、「仁義」に重きを置く古いヤクザをイメージするかもしれない。十六世紀のイタリアも複数の共同体が併存し、互いに関係し合い、影響し合っている。なぜなら近代システムが出来つつあったこの時代においては、経済のネットワークが、複数の共同体を被いつつあったからである。この時異なる原理に成り立つ共同体を関係づけるのが、「貨幣」という媒介なのである。「古代ローマ人」の共同体であれば、仁義のやり取りで、幸福な共同体が成り立っていたであろうし、そこには固有性を持った人間と人間の有機的な結びつきが実現していたであろう。けれども、貨幣による商品交換の世界では、その安息感は消滅してしまう。そしてまた、「交換手段としての貨幣」という発想が転倒し、「貨幣の増殖」が目的となってしまう。
すなわち、かれらは「個人化」され、ここに、兄弟盟約的な人間関係に支えられていた共同体は、貨幣を通じて間接的に結ばれる単なる個人と個人の集まりとしての社会に変質をとげてしまうのである。いや、かれらは単に個人化されただけではない。みずからは知らずに遠隔地方交易の方法を実践していたバッサーニオ、グラシアーノオ、ロレンゾーは、差異を媒介することによってみずからを増殖させようとする貨幣=女と合体することによって、利潤=子供を生み出すことを自己目的とした言葉の真の意味での「資本主義的」な個人となるのである。
かくしてアントーニオの「憂鬱」の原因が明らかとなる。兄弟盟約的な「仁義」の美学で頭をいっぱいにしていたアントーニオは、時代の趨勢と行き違い、東映任侠映画の主人公のように、自らの破滅を予感していたがゆえにブルーな気分に染まっていたというわけだ。
それぞれ資本主義的な個人へと転身することに成功したなかで、アントーニオただひとりが孤立した存在として取り残される。最後まで兄弟盟約的な共同体原理に固執し続けていたこの「古代ローマ人」、真の意味での「ヴェニスの商人」になれなかったこのヴェニスの商人アントーニオは、結局、みずからが帰属すべき共同体そのもの、いや、自分そのものを失ってしまい、世界という舞台から没落するよりほかはない。アントーニオとは、シャイロック同様、資本主義という社会的な力の働きによって「腐った果実のようにいち早く地に落ちてしまう」古い価値体系の象徴に他ならなかったのである。
ここで言われている「ヴェニスの商人」は「キャラ」であり「換喩」である。一方、「古代ローマ人」は「実存」であり「隠喩」である。この問題は後でゆっくり展開することとして、十六世紀のイタリアのほかにも、歴史における貨幣問題があるので、そちらについても取り上げることとしよう。
歴史の中の「あれれれれ……」感2――ゴールドの終焉
1850年代から1930年代にかけて、主にヨーロッパを中心として、「あれれれれ……」というため息が漏れ始める。
例えば、1850年代においては、フランスのフローベールが自らが住まう文化的環境の変化を察知し、彼以前の、例えばユーゴーとは異なる言語実践を強いられることになるが、その言語実践に焦点を当てて論じたのが、蓮實重彦の『物語批判序説』である。その書物で描かれているのは、文字通り「物語批判」であるが、強引に本原稿に引き寄せて言うと、「換喩批判」という側面もあるかもしれない。そこでスポットをあてられているのは「多数者への攻撃」であるからだ。「何しろこの編纂者は、戦略的に多数者の側にたって、多数者の物語を模倣しながら、しかも多数者の説話論的な欲望にしたがって、平等かつ民主的な多数者を攻撃することで、多数者から身をまもろうという目的で、序文をしたためようとしているのだ」(『物語批判序説』)。なんともややこしい言語実践だが、このような行為の背景に蓮實が見出すのは、「写真」である。しかも、その写真は「ダゲレオタイプ」ではなく、「カロタイプ」としての写真である。同じ写真でも、ダゲレオタイプとカロタイプでは、その様態も機能も全く異なるのだ。どういうことか。
ダゲレオタイプにおいては、銀板腐食からたった1枚の写真を取り出すことしかできないが、カロタイプにおいては、ネガを焼き付けることによって無数の写真を手にすることができる。言うなれば、ダゲレオタイプは「一つの真実に対する対応する一つの作品を生む特権的な装置であり、断じて大衆的なものではない」。それは「鏡」の代替えのようなものであり、真実(価値)を支えるということでは、貴金属としての金(ゴールド)の位置に相当する。それに対してカロタイプは、ネガから無数のコピーが発生するゆえ、オリジナルとコピーの区別が意味をなさなくなり、真実はその意味と価値を失い、知的エリートが社会を先導する時代は終わる。
人は、自分が他人に先んじて何かを知ったが故に語るのではなく、誰もが自分と同じことを知っているという前提が発話行為を支えることになる。こうした発話の磁場が、写真史の上でダゲレオタイプからカロタイプへの発展として語られた一時期に相当していることが重要なのだ。われわれが強調したいのは、そこに認められるのが発展ではなくむしろ断絶に近い現象だという点である。ダゲレオタイプとカロタイプとは、同じ一つの言説が技術的な進歩として達成した一連の装置ではなく、異質の言説がそれぞれの説話論的な分節化に従って生み落した別種類の装置なのである。
ダゲレオタイプにおいては、下から支えるにしろ、上から吊るされるにしろ、物事の真実が知の根拠としてあり、この場合の知の体系は縦の軸を中心に展開される。しかしカロタイプにおいては、「誰もが自分と同じことを知っているという前提」において知が共有され、数量的に拡大してゆく。その動きは横の軸を中心に水平的に展開してゆくことになる。この二つでは、文化の在り方が全く異なっているのだ。ダゲレオタイプは、価値の保証をゴールドという質的な希少品においているが、カロタイプにおいては、価値の保証は貨幣という量的なコピーにおいている。1850年代に出現したこうした文化的変容は、その後も幾たびか歴史上問題化され、一部の人間を苛立たせることになる。
1880年代のマラルメにそれを見出すのは、『平面論』を書いた松浦寿輝である。「マラルメの生きていたのは、資本主義経済のネットワークの拡大と緻密化によって、富が小切手や株や債券といった形式的な『記号』として流通したり蓄積されたりするようになり、『金』という参照原器の『イメージ』――その輝き、その重さ――が加速度的に希薄なものとなっていった時代であった」(『平面論』)という文章に読まれるように、1850年代に生じた文化の変容がここでも確認されている。そこで松浦が向き合うのは、書名が示す「平面」化された世界である。カロタイプとしての「写真」が世界を埋め尽くている世界と言っていい。松浦が言及しているジェイムズ・アンソールの絵画「悪だくみ(陰謀)」(1890年)は、その世界の空気感を生々しく描いている。アンソールは没落貴族の末裔だが、19世紀的な感性が20世紀的な現象とぶつかると、こういう作品が生まれるのかな、という具体例として非常に興味深い作品である。作り手の感性が時代の最深部にまで届くとはこういうことを指すのであろう。
ここから、トーマス・マン的な「芸術家と市民」、あるいは「多数派をなす共同体の成員と誇り高い呪われた少数派」という古典的な対立の図式が思い浮かびもする。松浦自身そのような、プルーストやマラルメが持っていた芸術家の血筋を引いているであろうが、松浦はその図式を「一九世紀の時空」の話だと斥け、「貌と像」という構図で現代を説明しようとする。「<像>と<貌>の間に働く、斥力によって結びついた相互排除の力学は、『大衆』対『芸術家』といった階級的な主体の問題ではない。それは、階級の問題ではなく空間の問題なのである」(『平面論』)。そう、問題は空間の問題なのである。つまりは、横の空間と縦の空間、具体的に言うと貨幣や商品が循環する市場空間と道徳律や芸術などを含む公共空間の違いなのである。松浦は、「像と貌」の構図を「数量と強度」の構図でもあると述べている。
ひとことで言って、<像>のリアリティは数量にある。それに対して、こちら側の世界を「再現」的に流通するわけではなく、向こう側の世界に残留しつづけ、そこから「反復」的に湧出してくる<貌>のリアリティを保証しているのは、流通の頻度ではなくそのつどそのつどの湧出の強さである。「再現」は数量の現象であり、「反復」は強度の体験なのである。そして、数量のリアリティが定義上、複数的なものであるのに対し、強さのリアリティとは、徹頭徹尾単数的なものである。たしかに「反復」の中に置かれてはいるが、やや逆説的ながらそのつど絶対的な単数としてしか「反復」されえないものが、<貌>なのである。
「像と貌」の違いが「数量と強度」の違いで説明され、さらに「複数的と単数的」という問題が提示されている。次はこの問題を取り上げよう。
複数性と固有性
精神分析医の斎藤環は、「スクールカースト」そのほかの「キャラ」にまつわる現代の諸問題に積極的にコミットしてきたが、彼の問題系でキーワードとして頻繁に登場するのが「キャラ」と「固有性」である。ざっくり言っちゃうと、キャラは浅い=横=換喩的な病気であり、固有性(実存)は深い=縦=隠喩的な病気である。近代においては、精神病は深かったので、症状は芸術的(?)でさえあった(例えばアルトー)。それに対して、ポストモダンにおいては、精神病は浅いので、症状は軽く、健常者に近い。「DIDの障碍のレベルは『浅い』。アプリケーションソフトレベルの障碍はありえても、OSは正常に機能している」(『キャラクター精神分析』)。なぜ、キャラにおいて症状が軽いかというと、決定的な破局(トラウマ)を回避させるべく、社会全体に「操作主義」という「環境管理型権力」が働いているからである。そこではすべてが表面化され、操作の対象となる。この操作は、トラウマという破局の回避はもちろんのこと、効率よく経済成果を出すというビジネス面までにも及ぶ。むしろ後者の側に重点が置かれているであろう。
けれども、行き過ぎた操作主義は人間の条件を破壊しかねない。操作主義とは、すべてを「記述可能」なもの(そこには「キャラ」も含まれる)にしてしまう行為のことであるが、近代の人間像(実存)は、「記述不可能なもの」に人間を人間たらしめる力を見出していたからである。
話を戻すなら、先に述べた「欠如としての主体」を象徴するものが、いわゆる「固有名」である。それは確定記述の束に還元できない一つの無意味な刻印であり、この単独性こそが主体の位置を決定づける。僕たち一人一人の固有の人生の根底をささえているのが、固有名という意味のない刻み目であるということ、これが精神分析的な「人間」のモデルだ。
古典的なあるいは人文学的な世界観においては、固有名こそが人間の証であるのだ。「主体の位置を決定づける」単独性を持ちえないならば、人は「統合と内省のための視点」を失うことになる。だから固有名を持つことは幾分かは重力を伴う重たい体験でもある。けれども、生産性と流通性が重んじられる風潮にあっては、人文学的世界観は邪魔者でしかない(4年前一部で話題となった「学術会議任命拒否」問題は、端的に、それを象徴している)。また、固有名は深さの体験であるがゆえに、「安全や自由のほどよい充足」という浅さの体験が優勢となった社会においては、疎ましいものとされる。深さやそれに伴う流通の頻度の低いものは、経済原則にそぐわないからだ。斎藤環は、キャラ的コミュニケーションと実存的対話を区別して、その二つを異なる言語体験とみなしている。意味を求める実存的対話とは違って、キャラ的コミュニケーションは、流通の高まりを目的とすることを指摘している。
僕はかつて、ケータイメールによるコミュニケーションを、情報量が少ないという意味で「毛づくろい」に喩えたことがある。これはコミュニケーションのありようが、意味のある情報を伝達し合う行為から、互いのキャラの輪郭を確かめ合うようなやりとりに変容しつつあることを指している。
要するにコミュニケーションのためのコミュニケーションなのだ。意味のある対話が目的とされているのではなく、コミュニケーションの場が盛り上がればそれでいいのだ。それは、頻度と速度を上げて市場をアゲアゲ状態にする貨幣の姿に似ている。貨幣には、人文学的な言葉と違って意味などない。貨幣→商品A→貨幣→商品B→貨幣→商品Cという循環運動が実現されさえすればいいのだ。それは最終的な意味にたどり着かないシニフィアンの永久的な横滑り運動を担う換喩に似ている。間違っても内省状態に陥り、メランコリックにあれこれ思索してしまう人文学者(隠喩)に似てしまっては困るのだ。立ち止まって貯金状態になることを、貨幣というか換喩というかビジネスマインドは、忌避する。「貨幣とは蓄蔵されているかぎり、何も産まぬ石女である。それは『これ以上の自分をと、望みを高めぬ』静態的な存在にすぎない。だが、ひとたび死蔵された状態から解き放たれて流通し始めると、貨幣とは、貨幣である同時に貨幣以上のものに転化しようとする」(「ヴェニスの商人の資本論」)。「経世済民」など、福沢諭吉や柳田国男のような人文学マインドの持ち主が抱いたファンタジーにすぎない。けれども流通の無限運動は、はたして、絶対的な善であるのか。
無限に翻弄されて
貨幣が実現する「貨幣→商品A→貨幣→商品B→貨幣→商品Cという循環運動」は、原理的あるいは貨幣的には「無限」に続くことが想定されはする。けれども資源や市場は有限なのだから、ましてや地球は有限な惑星なのだから、現実的には、この無限運動には歯止めがかかり、ほっと一息つけて少しは安らかな老後が送れるかな、と甘い期待を持っていた。最後のフロンティアと言われるアフリカの開発=搾取が完了すれば、資本主義はその強欲な運動を鎮めてくれるのだと、甘い考えを持っていました。人間の身の丈に合った有限の経済現象とやっと向き合えると、ガタが出始めた体のことを慮っておりました。がしかしbutである。北極や南極、さらには月およびその他の惑星の資源を狙って、宇宙空間へと市場が拡張され、貨幣をめぐる無限ゲームはまだまだ続行されると、いうじゃありませんか。さらには「デジタル通貨」の波及によって、国際金融システムの姿が大きく変わりつつあり、デジタル通貨の世界的な覇権競争が始まっているとも聞きます。通貨は手段にすぎないのに目的化されてしまっている。
正直言って、わたし、もうついていけません。今までもいやいやながら世の中の流れに付き合ってきましたが、もう無理です。ロシアとウクライナの軍事戦争も由々しきことであるが、度を越した経済戦争もそろそろ止めて欲しいっす(※註――この原稿は2022年3月に書かれたものを若干改稿しました)。プーチンのハードな軍事侵攻に対しては、経済制裁というソフトな戦略で経済敗者にしてくれるわ、と自由経済陣営は息巻いておるようですが、戦争が起きてしまう歴史的政治的経済的条件と構造を見極めたうえで、「より良い世界」の構想を、戦争が起きる前から準備しておいて欲しかったっす。「強い奴が世界を牛耳るのだ」という、90年代には(最近では評判の悪い)PC(ポリティカル・コレクトネス)によっていったんは相対化された80年代のフィジカルに行き過ぎた価値観が息を吹き返している。アメリカ大統領は80年代の匂いをぷんぷんさせているし、何かとお騒がせな「NHKから国民を守る党」の党首も80年代の匂いを発散させている。彼は80年代の民放ヴァラエティ番組を見すぎて育った80年代の負の遺産であろう(だから「NHKをぶっ壊す」?)。さらにヨーロッパでもPC的価値観をかなぐりすてて、つい最近のドイツの選挙でも70年代的・90年代的価値観を担っていたショルツは敗北した。アメリカ大統領は「エネルギーと移民に関して常識のない政策が抹殺された」とウハウハのようである。
「戦後」において、コロナと戦争で損した分の倍返しだ、と言わんばかりに、国家と資本が結託して、「働け働け生産性を上げろ」と、経済戦争に血道を上げるマイルド・プーチンのような資本の権化に尻を叩かれまくるのが、今からコワい(2011年の東日本大震災直後の「これからは経済優先の考え方はやめよう」という掛け声はいったいどこへ行ってしまったのやら)。デジタル的水平的換喩勢力がさらに強まってしまうのが怖い。これに対抗するにはやはりアナログ的垂直的隠喩勢力が、願わくば4対6ぐらいの割合で存在することが望ましい。丸山眞男は、モンテスキューを参考にして、アナログ的な中間勢力の必要性を主張したと、柄谷行人は言う。
丸山眞男が進歩的啓蒙派であるといわれるのに、封建的というべき旧勢力の抵抗を不可欠なものとして重視しているのは、不思議に見えますが、モンテスキューの考えを知っていれば、別に驚くことでありません。
一般に、共和政治・君主政治・専制政治という政体が区別されるのですが、モンテスキューの考えでは、そんな区別は重要ではない。君主制は、権力を拘束しうる中間勢力(貴族、聖職者など)が存在しないと、専制政治になる。その点では、共和制も同じである。実際、フランス革命から出てきた「恐怖政治」がそれを証明しています。一方、専制体制を阻止するのは、中間団体・中間勢力である。モンテスキューは、それを貴族や教会に求めました。いいかえれば、その当時、遺物であり、啓蒙派によって攻撃されていたものにこそ、専制政治を妨げる鍵を見出したわけです。
やっぱり多様性は必要だ。思えば、貨幣とは、多種多様なものとしてある事物を数量の次元において平準化し束ねてしまう装置ではなかったか(リンゴ=500円=シャープペンシル)。こんなことを書くと、マイルド・プーチンから「反動分子、分断分子めが!」と罵られそうだ。マイルド・プーチンの旦那さまぁー。おらはしがない無学な農民にすぎましぇん。心を入れ替えて日の出とともに鍬持って畑を耕しますだぁー(と、私の中のイタイケなナロードが痛切な叫びをあげる)。しかし、多様性とはつき詰めてしまうと分断に行き着くだろう。そこんところは、顕在化させないように玉虫色に誤魔化しておくのが、政治の技術というやつで……。
結局棺桶に入るまで、平穏な日々を送ることは出来そうもなさそうであるが、ここは同世代の、なぜか老いを迎える気配のないパワフルな人びとから勇気をもらうことにしよう。
意味不明にパワフルな中高年者たち
昭和のJポップの最高傑作と言えば、個人的には、薬師丸ひろ子の「探偵物語」である。薬師丸は声が衰えない。名前を出すのは控えるが、昔は美声だったけれども今は……うーん……という歌手も多い中で、薬師丸は声の老けを感じさせない(由紀さおりも声が老けない)。80年代というアイドル、テレビ(換喩系)が全盛の頃、女優、映画という隠喩系の薬師丸は希望の星だった。この頃私は薬師丸のファンだったので、この曲への思い入れは強い。
田村直美も勢いが衰えない(曲はカバーで「Get Wild」)。ヤンキーの街と称される名古屋出身だからであろうか、落ち着いてもいい年なのに元ヤンのオーラが滲み出てしまっている。
ちなみに若いころはこんな感じ(曲は「LOVE SONGを」)。
五十嵐浩晃の声の若々しさも驚異的である。ルックスはさすがにおじさん化しているが、声は少年っぽい。メロディ・センスの高さは評価すべきものがあり、もっとメジャーになってもいいと思うのだが、メジャー化しないところも道産子の朴訥さっぽくて納得するところがある(曲は「ペガサスの朝」で、クレインとのコラボ・ヴァージョン)。
洋楽からはポインター・シスターズ。私は好きなグループだけど、日本ではあまり人気がない。曲は「I’m So Excited」。動画は同窓会的なコンサートで、彼女たちの体型も変わった。若いころに比べると体が1・5倍ぐらいに膨張している。
昔はモデル並みにスリムでスタイルも9頭身だった。若いころはこんな感じ(曲は「He’s So Shy」)。
チャカ・カーンも年とってもなおパワフル。もともと女子ラグビー選手みたいな体格をしていたが、ここでは女子プロレスのヒールのようである。曲は「Ain't Nobody」。
「Treat Her Like A Lady」を歌うテンプテーションズも、その奮闘ぶりが涙なくして観られない。文字通り、汗だくになって歌い踊っている。後半、エアロビクスのような腰をおろす動きがあるが、本来であれば腰を床まで十分おろしきるはずなのであろうが、へばってしまって、おりきっていないのが笑える。